蒲生城跡(読み)かもうじようあと

日本歴史地名大系 「蒲生城跡」の解説

蒲生城跡
かもうじようあと

[現在地名]蒲生町久末・下久徳

蒲生川右岸沿い、標高一七一メートルを最高地点とする起伏に富んだシラスの丘を主とする山城ほん城・りゆうヶ城ともいう。藤原通基の子孫で豊前宇佐宮留守職の教清の子舜清は、保安四年(一一二三)同宮の役人として大隅垂水たるみず(現垂水市)に入ったが、その直後に蒲生と吉田よしだを管轄することになり、当城を築いて居城としたという(「三国名勝図会」など)。建久九年(一一九八)三月一二日の大隅国御家人注進状写(隼人桑幡文書)に太良大夫清直とその一族脇本三郎大夫正平がみえる。「薩隅日三州他家古城主来由記」はこの清直を当城の最初の城主としており、舜清・清直らとその子孫は蒲生氏を名乗り、代々当城を居城としたといわれるが、当初は館に入ったものと思われる。興国三年(一三四二)とみられる六月吉日の御感綸旨所望輩注文(旧記雑録)によると、蒲生重直・清房は知覧忠元に属し、蒲生氏は南朝方であった。文和二年(一三五三)頃には蒲生彦太郎一族は足利直冬方で(「大隅国直冬方交名注文」同書)、当城は蒲生氏が合戦をするようになった一四世紀前半期の築城と思われる。応永八年(一四〇一)当時、島津元久の軍勢中に蒲生氏がおり(「応永記」同書)、同二〇年島津久豊が吉田に出陣していた留守に清水しみず(現鹿児島市)を攻略された際、側近の蒲生清寛らは久豊を助けて同城を回復した(島津国史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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