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蒲鮮万奴 ほせんまんど Pu-xian Wan-nu; P`u-hsien Wan-nu

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蒲鮮万奴
ほせんまんど
Pu-xian Wan-nu; P`u-hsien Wan-nu

中国,遼東地方に 13世紀初め興った大真国の建設者 (在位 1216~33) 。女真人。初めに仕え,大安3 (11) 年頃監軍の職にあったが,貞祐2 (14) 年遼東宣撫使となって,満州を鎮撫。このとき契丹人耶律留哥 (やりつりゅうか) が金にそむいてモンゴルに通じ遼東に拠ったので,その討伐を命じられたが,金の衰勢を見きわめた彼は,同4年逆に東京に拠ってそむき,自立して大真国と号し,天泰と建元。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蒲鮮万奴
ほせんばんど

生没年不詳。中国、金末の武将。1214年金の遼東宣撫使(りょうとうせんぶし)となり、咸平(かんへい)(いまの開原)に駐留、遼東防衛にあたった。このころ契丹(きったん)人耶律留哥(やりつりゅうか)が反乱を起こし遼東で独立し王を称したので、万奴は命を受け留哥を襲ったが大敗した。1215年、万奴はふたたび留哥を討つと偽り出兵し、東京(遼陽)などの地に拠(よ)って金に背き、天王と自称し、年号を天泰、国号を大真とした。万奴はいったんはモンゴルのムカリ(木華黎)の軍に降伏したが、1217年ふたたび自立して東夏国王と称し、衆を率いて東京を去り、咸平、隆安(農安)、上京(阿城)を通過し、豆満江流域の南京(延吉(えんきつ)東方4キロメートルの城子山付近)地方に移住した。その後、万奴はふたたびモンゴルに帰服し、高麗(こうらい)とも通交があったが、1233年、グユク(後の定宗)の率いるモンゴル軍に攻められ、万奴は捕らえられ、国は滅びた。万奴の国の国号については東真国、東夏国、大真国などの説がある。[河内良弘]

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世界大百科事典内の蒲鮮万奴の言及

【元】より

…この通商協定がホラズム国側の背信によって破られたとき,平和裏の安定成長を期待していたモンゴル帝国は態度を一変して,西域大遠征を敢行し,以後3代にわたる東西経略をへてようやく一段落する。 すなわち第2代オゴタイ・ハーン(太宗)の治世にはロシア諸侯国が服属し金王朝および蒲鮮万奴(在位1215‐33)の大真国が併合され,続く第4代モンケ・ハーン(憲宗)の治世にはアッバース朝の討滅と高麗,西蔵,安南の内属が決定し,ついに西は地中海から東は日本海にわたる帝国最大の版図が実現されることになる。この間,太祖は広大な領地を割いてアルタイ山以西の草原に諸子(長男ジュチの嫡子バトゥ,次男チャガタイ,三男オゴタイ)を,興安嶺左右の地には諸弟(次弟カッサールの諸子,三弟カチウンの諸子,四弟オッチギン)を分封し,ここにハーンを頂点とするモンゴル朝廷は一族諸王を頂く遊牧封建諸侯国(ウルス)を左右に率いて南方に征服した定住文化地域(中国,ウイグリア,ソグディアナ)を直轄領とする大モンゴル帝国の支配体制を整えたわけである。…

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