日本大百科全書(ニッポニカ) 「蒲鮮万奴」の意味・わかりやすい解説
蒲鮮万奴
ほせんばんど
生没年不詳。中国、金末の武将。1214年金の遼東宣撫使(りょうとうせんぶし)となり、咸平(かんへい)(いまの開原)に駐留、遼東防衛にあたった。このころ契丹(きったん)人耶律留哥(やりつりゅうか)が反乱を起こし遼東で独立し王を称したので、万奴は命を受け留哥を襲ったが大敗した。1215年、万奴はふたたび留哥を討つと偽り出兵し、東京(遼陽)などの地に拠(よ)って金に背き、天王と自称し、年号を天泰、国号を大真とした。万奴はいったんはモンゴルのムカリ(木華黎)の軍に降伏したが、1217年ふたたび自立して東夏国王と称し、衆を率いて東京を去り、咸平、隆安(農安)、上京(阿城)を通過し、豆満江流域の南京(延吉(えんきつ)東方4キロメートルの城子山付近)地方に移住した。その後、万奴はふたたびモンゴルに帰服し、高麗(こうらい)とも通交があったが、1233年、グユク(後の定宗)の率いるモンゴル軍に攻められ、万奴は捕らえられ、国は滅びた。万奴の国の国号については東真国、東夏国、大真国などの説がある。
[河内良弘]