中国、遼寧(りょうねい)省中部の地級市。弓長嶺(きゅうちょうれい)など5市轄区と遼陽県を管轄し、灯塔(とうとう)市の管轄代行を行う(2016年時点)。常住人口185万8768(2010)。太子河(たいしが)中流部に沿う工業都市で、機械、化学、紡織、冶金、電子などの工業が立地する。なかでも化学繊維工業が盛んで、国内の重要な生産拠点となっている。近郊では、コウリャン、大豆、トウモロコシ、綿花、柞蚕糸(さくさんし)を産し、地下資源にも富む。
[河野通博・編集部 2017年4月18日]
長城以北の東北部ではもっとも早く開けた地で、戦国時代に燕(えん)がここに遼東(りょうとう)郡を置いてから政治軍事上の要地となった。6世紀ごろには高句麗(こうくり)の領域に入り遼東城が築かれた。唐は遼州、遼・金(きん)は東京(とうけい)遼陽府を置いて遼東地方の中心とし、元は遼陽路、明(みん)は定遼都衛・遼東都指揮司を置いた。清(しん)は東京城として一時国都とし、のち遼陽県とした。中華民国時代、ロシア、日本の占領下では、遼河(りょうが)による水運の便と、東支鉄道三大駅の一駅として、交通経済の要衝で、南満州鉄道は大機関庫を設け、日本軍の駐屯司令部も置かれた。
付近には旧跡が多く、広祐寺の白塔は金代の創建、遼陽城郭は明代の1372年の改築。日露戦争のときの両軍会戦の地としても知られる。
[星 斌夫 2017年4月18日]
中国,遼寧省中部,遼河の支流である太子河中流にある。戦国時代,燕の北進によって漢族の定住が始まり,秦・漢代には遼東郡が置かれ,遼陽は郡治の襄平県となった。東北諸民族に対峙する重要拠点で,また中国本土と朝鮮との交通の要地でもある。後漢末から三国時代には公孫氏が独立し,五胡十六国時代は慕容氏の前燕,次いで高句麗の領域となった。当時は遼東城と呼ばれたが,644年(貞観18),唐の太宗の高句麗討伐で再び漢族支配に復し,一時安東都護府が置かれた。遼代には五京の一つとして東京遼陽府となり,これから遼陽の名が起こった。元代に遼陽路となり,明代遼東都指揮使司が置かれ,清初にも東京となったが,1653年(順治10)遼陽府となり,57年府治が盛京(瀋陽)に移り,奉天府と改称されるに伴い,遼陽州とされた。1913年再び県となり,38年市が設けられ,75年県域全部を市域とするに至った。哈大(ハルビン~大連)鉄道に沿い,遼渓(遼陽~本渓)線を分岐する。機械,化学,紡織などの工業が盛んで,とくに最新の石油系化学繊維工場の存在で有名。
周辺から東胡族の墳墓群が発見されるほか,漢族の遺跡は三道壕に前漢代の村落遺跡や小児甕棺群があり,また後漢から晋代にかけての壁画墓が北園,三道壕,鵝房,南林子,棒台子,上王家村などで発見されている。板石を組み合わせた多室墓で車馬行列,雑伎,庖厨などの場面が描かれ,高句麗壁画墓との関連が注目される。
執筆者:秋山 進午+河野 通博
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