日本歴史地名大系 「蓼原村」の解説 蓼原村たでわらむら 静岡県:富士市旧富士市地区蓼原村[現在地名]富士市蓼原横割(よこわり)村の東に位置し、大部分が潤井(うるい)川の右岸に、一部は左岸にある。東海道が通る。現在、行政上は「たではら」という。天正一九年(一五九一)四月日の中村一氏社領安堵状写(大宮司富士家文書)によれば、中村一氏は「加島之内たて原」において高一〇〇石を富士浅間社(富士山本宮浅間大社)領として安堵している。加島新田開発により村の北部の潤井川の両岸一帯に蓼原村加島(かじま)新田(加島蓼原村)が成立(天保八年「村絵図」笠井家蔵)。寛永改高附帳に蓼原村とみえ、田方九〇三石余・畑方三六石余、同所新田は田方四二石余・畑方二石余、ほかに源立(げんりゆう)寺領一〇石と本市場(もといちば)村の米之宮(よねのみや)浅間領三〇石がある。延宝七年(一六七九)の加島領郷帳(須津文書)では蓼原村高一千二八石余、反別のうち田八二町余(うち散田三〇町)。 蓼原村たでわらむら 京都府:加佐郡大江町蓼原村[現在地名]大江町字蓼原由良川左岸を走る宮津街道に沿う街村で、北は河守町(こうもりまち)に続き、南は公庄(ぐじよう)村、東は由良川を隔てて千原(せんばら)村・尾藤(びとう)村に相対する。蓼原村はこの付近では最も低地にあたり、古くより洪水の脅威にさらされてきた。慶長検地郷村帳に高一二八・〇八石「蓼原村」とみえる。宮津藩領であったが寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領、翌九年宮津藩領、享保二年(一七一七)には幕府領と変遷。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by