蔡琰(読み)さいえん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「蔡琰」の意味・わかりやすい解説

蔡琰
さいえん
(177?―?)

中国、後漢(ごかん)の女流詩人。字(あざな)は文姫(ぶんき)。陳留(河南省)の人。後漢の学者蔡邕(さいよう)の娘。父同様博学であった。最初の夫と死別したのち、後漢末の動乱の際に匈奴(きょうど)に捕らわれ、左賢王の妻となって2子を産んだ。12年後、蔡邕と親交のあった曹操(そうそう)が、邕に後継ぎがないことを痛み、琰を購(あがな)って帰国させ、のちに董祀(とうし)と再婚した。自らの数奇な生涯を歌った「悲憤詩」2首と「胡笳(こか)十八拍」が名高い。ともに、その真偽をめぐって古来より議論があるが、「悲憤詩」は唐の杜甫(とほ)の「北征」などに影響を与えたといわれる。

[根岸政子]

『内田泉之助著『漢詩大系4 古詩源 上』(1964・集英社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蔡琰」の意味・わかりやすい解説

蔡琰
さいえん
Cai Yan

中国,後漢の女流詩人。陳留圉 (ぎょ) 県 (河南省) の人。字,文姫。後漢の学者蔡 邕 (さいよう) の娘。最初の夫に死別後,漢末の戦乱にあい,初平3 (192) 年匈奴の左賢王に捕えられて,その妻となり,12年間匈奴で過し2子を産んだ。のち魏の曹操が蔡 邕の子孫が絶えるのを惜しんで匈奴から買取って帰郷させ,董祀 (とうし) と結婚させた。父の学問を継いで博学の名が高く,音楽にも通じていた。半生苦難をうたった『悲憤詩』『胡笳十八拍』が残されており,自作か否かについては異説があるものの,五言詩初期の傑作である。

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世界大百科事典(旧版)内の蔡琰の言及

【胡笳十八拍】より

…後漢の蔡邕(さいよう)(133‐192)の娘の蔡琰(さいえん)(文姫)は2世紀末に匈奴に捕らわれてその王に嫁し,12年のち帰還したが,その痛切な体験をみずから18章に仕立てて詠んだという長歌。すでに宋代から後世の擬作と疑われてきたが,1959年郭沫若が真作説を唱えてから1年余りの大論争となった。その決着はつかなかったが,公平にみて,唐代擬作説を実証的に主張した劉大杰(りゆうだいけつ)の側がはるかに説得力に富む。…

【女流文学】より

…女性の手に成る文学。女流文学という文学上のジャンルがあるわけではないが,抒情的表現にすぐれた才能が示されることが多い一方,強い構成力を要する劇作ではすぐれた女性作家は近年までまれであったといえよう。17~19世紀のフランスにおけるサロン文学や,欧米の家庭小説などは女流文学の成果が結実した例であるが,日本の平安時代のように女流文学が隆盛をきわめた例は類をみない。近代になって女性の社会的地位が向上するに伴い,女性の文学活動も活発になり,今日では多くの国々ですぐれた女流作家が輩出している。…

【文姫帰漢図】より

…中国の故事人物画の画題。196年(建安1)南匈奴の右賢王は魏の曹操の意を受けて後漢の献帝を許に移して曹操の保護下におき,帰国した。このとき大学者蔡邕(さいよう)の一人娘蔡琰(さいえん)(字は文姫)を奪って胡地に連れ去り,左賢王の妻とした。文姫は2児の母となり,12年後,蔡邕の友人曹操によって買い戻され,208年洛陽の土を再び踏んだ。この図を一に《胡笳十八拍図》というのは,離別の悲しみを中心に唐の劉商の歌った詩18段にもとづき,18場の物語絵に仕立てたからで,別に文姫の自作と伝える18拍もある。…

【やもめ】より

…元来,〈やもめ〉の語は《日本書紀》などには寡,寡婦の字があてられ,夫をなくした女,夫のない独身の女を意味し,妻をなくした男は〈やもお〉と呼ばれ,鰥の字があてられた。一方,〈女やもめに花が咲く,男やもめに蛆(うじ)がわく〉という諺にみられるように,〈やもめ〉という言葉は男女双方をさすこともあり,また,結婚せずに独身を通す者に対して用いられることもある。本項目では,配偶者を失って,その後再婚しないでいる者について記述する。…

※「蔡琰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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