中国、唐代盛期の詩人。字(あざな)は子美(しび)。少陵(しょうりょう)とよぶのは、長安南郊の同名の地が先祖の出自であることによる。中国最高の詩人としては「詩聖」、李白(りはく)と並称されては「李杜」、晩唐の杜牧(とぼく)に対しては老杜(ろうと)、大杜(だいと)とよばれる。河南の鞏(きょう)県を本居とする小豪族の出身で、遠祖には晋(しん)初の偉人杜預(どよ)があり、祖父には唐初期の詩人杜審言がある。
[黒川洋一]
少年時代から詩をよくしたが、科挙の試験に及第せず、20代の前半は江蘇(こうそ)、浙江(せっこう)に、後半から30代のなかばまでは河南、山東に放浪生活を送り、李白や高適(こうせき)と親交を結んだ。35歳のとき長安に出て玄宗皇帝に賦(ふ)を奉るなどしたが、就職の機会は到来せず、貧窮と不遇をかこち続けた。755年、44歳のとき、安禄山(あんろくざん)の乱にあい、賊軍に捕まって、長安に軟禁されること1年弱、脱出して新帝粛宗(しゅくそう)の鳳翔(ほうしょう)(長安の西方)の行在所(あんざいしょ)に馳(は)せ着け、その功によって左拾遺(さしゅうい)を授けられたが、任官早々にして、失脚の宰相房琯(ぼうかん)の罪を弁護して粛宗の怒りを買い、休職処分を受けた。官軍が長安を回復したのに伴い、許されて政府にふたたび出仕したが、1年で華州(長安の西方)の地方官に左遷、それもまた1年で官を棄(す)て、妻子を引き連れて甘粛(かんしゅく)の秦(しん)州(天水市)に赴く。秦州に滞在すること4か月ばかりにして、南の同谷(成県)に移り、さらにその年の末には四川(しせん)の成都に赴き、そこに落ち着く。ときに48歳。翌春、成都郊外の浣花渓(かんかけい)のほとりに、いわゆる浣花草堂を営んだ。
一時的には地方軍閥の反乱のために東四川の梓(し)州、閬(ろう)州に避難したことがあるが、前後数年にわたる草堂での生活は比較的に平和であり、節度参謀として友人厳武(げんぶ)の幕府に出仕し、その推薦で工部員外郎の官を得たりした。杜工部とよばれるのはそのためである。54歳、帰郷の目的をもって成都を離れ、揚子江(ようすこう)を下って、所々を転々としたのち、四川東端の夔(き)州(奉節県)に至り、川沿いの西閣に居住したが、まもなく都督柏茂林(はくもりん)の援助を得て、郊外の瀼西(じょうせい)、東屯(とうとん)に官田を借りて農園を営んだ。57歳の初め、舟を揚子江に放って三峡を下り、以後2年の間、湖北、湖南の水上をさまよい続けたのち、湖南の耒陽(らいよう)において病死した。ときに59歳。牛肉と白酒による中毒が死因となったとするのは、後代の作り話であり、信は置けない。また一説に、亡くなった所を洞庭湖上とするが、それも誤りである。
[黒川洋一]
杜甫自身の語るところによれば、すでに少年にして1000余編の詩を有していたというが、それらの詩は後世には伝わらず、いまに伝わるものは1400余編の詩と、少数の散文にとどまり、それも原則として30歳以前のものを欠落する。30歳以後の詩は、その顕著な詩風の変化成長のうえから、四つの時期に分けることができる。44歳までが第1期で、この時期の杜甫は目を外に向け、対象の忠実な写生と、さまざまの社会悪の告発に熱心である。「朱門には酒肉臭(くさ)れるに、路(みち)には凍死の骨あり」(「京より奉先県に赴くときの詠懐、五百字」)。48歳までが第2期で、この時期の杜甫は、安禄山の乱時における憂愁の体験により、従来は外へ向かいがちであった視線を、自己の内部へと食い入らせ、内心の憂愁を歌うとともに、自己の憂愁を多くの人々の憂愁の一つとしてとらえるようになる。「干戈(かんか)の地に満つるを知る、国西の営を照らすことを休(や)めよ」(「月」)。54歳までの成都に居住した数年間の詩は、また一つの転回を遂げ、熟視は自然が人間に向かって示す善意へと向けられる。「啅雀(とうじゃく)は枝を争って墜(お)ち、飛虫は院に満ちて遊ぶ」(「落日」)。59歳の死に至るまでが第4期で、とくに夔州に滞在した2年間は、円熟多作のときであり、「秋興八首」「詠懐古跡五首」などの七律の名作を残しているが、この世界は多くの矛盾を含みつつも永遠に持続するとする新しい哲学の獲得は、この時期の詩を、しみじみとした温かいものとする。「鶏虫の得失は了(おわ)る時無し、目を寒江に注いで山閣に倚(よ)る」(「縛鶏行」)。
[黒川洋一]
杜甫の詩には以上のような成長変化がみられるが、一貫してその詩を成立させるものは、人間に対する大きな誠実である。人間は人間に対して誠実でなければならないとする中国文学の精神は、この詩人の詩のなかにもっとも活発に働いているということができる。そうした誠実の生む憂愁をもとにして、日常生活に多く題材をとり、広く人間の事実や心理、自然の風景のなかから、それまでの詩人がみいだせなかった新しい感動を発掘してそれを縦横に歌ったが、表現には精魂を傾け尽くし、「語の人を驚かさずんば死すとも休(や)めじ」(「江上に水の海勢の如(ごと)くなるに値(あ)い、聊(いささ)か短述す」)という。「京より奉先県に赴くときの詠懐、五百字」「北征」の二大傑作を含む長編の古体では、主として社会性を発揮し、詩でつづる歴史という意味で「詩史」とよばれ、短詩定型の今体ではとくに律詩に長じ、厳しい型式のなかに複雑な感情を細密に歌い込め、この詩型の事実上の完成者としての栄誉を担った。彼に先だつ六朝(りくちょう)・初唐の詩が、精神を失った装飾に堕し、また古代の詩が素朴にすぎるのに対し、杜甫は古代の純粋な精神を回復し、しかもそれを成熟した技巧に託して、中国の詩に一時期を画した。
[黒川洋一]
その詩の最初の発見者は、9世紀、中唐の元稹(げんしん)であり、元稹は杜甫のために墓誌銘を書き、「詩人以来、未だ子美のごとき者はあらず」といっている。白居易(はくきょい)も杜甫の崇拝者で、その社会批判の詩は杜甫に学んだものであるが、杜甫の評価が詩壇に確定をみるのは、11世紀、北宋(ほくそう)の王安石、蘇軾(そしょく)、黄庭堅(こうていけん)らの称揚による。「詩聖」の語もこのころに生まれたもののようであり、以来中国の詩の典型として祖述され続ける。民国の文学革命以後、その直接の祖述はやんだとはいえ、中国最高の詩人としての認識は、文化大革命期の一時期を例外として、今日の中国でも依然として揺るがない。日本への渡来は、鎌倉末期と推定され、虎関師錬(こかんしれん)の『済北(せいほく)集』にその詩句への言及がみえる。南北朝時代には3種の五山版杜詩の翻刻をみ、室町時代に入っては、心華元棣(しんかげんてい)の『杜詩心華臆断(おくだん)』や雪嶺永瑾(せつれいえいきん)の『杜詩抄』などの口釈書が生まれるとともに、『太平記』や謡曲のなかにその詩句の影響が現れる。江戸時代には律体の選本である『杜律集解(とりつしっかい)』(明(みん)の邵傅(しょうふ)注)の和刻本や、それに基づく各種の注解書が広く流布し、芭蕉(ばしょう)らの俳諧(はいかい)に大きな影響を与えたほか、渡会末茂(わたらいすえしげ)の『杜律評叢(ひょうそう)』、津阪孝綽(つざかこうしゃく)の『杜律詳解』などの優れた仕事を生んだ。
[黒川洋一]
『旧唐書(くとうじょ)』にみえる集60巻は後に伝わらず、後世の杜集のもととなったものは、11世紀、北宋の王洙(おうしゅ)編『杜工部集』20巻であり、その南宋刊本がいまに伝わる。注釈書のうち、宋の郭知達(かくちたつ)の『九家集註(しっちゅう)』は訓詁(くんこ)に優れ、清(しん)の銭謙益(せんけんえき)の『杜詩箋注(せんちゅう)』は史実に詳しく、仇兆鰲(きゅうちょうごう)の『杜詩詳注』は集大成として便利である。全集の索引としては燕京(えんきょう)大学編の『杜詩引得』があり、伝記としては民国の聞一多(ぶんいった)の『杜少陵先生年譜会箋(かいせん)』が優れる。また、わが国における杜詩研究の金字塔としては、鈴木虎雄(とらお)の『杜少陵詩集訳解』のほか、吉川幸次郎の『杜甫詩注』の未完の大著があり、英語による伝記としては、William Hungの『Tu Fu』がある。
[黒川洋一]
『鈴木虎雄・黒川洋一著『杜詩』全8冊(岩波文庫)』▽『馮至著、橋川時雄訳『杜甫 詩と生涯』(1977・筑摩書房)』▽『吉川幸次郎著『杜甫私記』(1980・筑摩書房)』▽『吉川幸次郎著『杜甫論集』(1980・筑摩書房)』▽『黒川洋一著『杜甫の研究』(1977・創文社)』▽『黒川洋一注『新修中国詩人選集3 杜甫』(1983・岩波書店)』
中国,盛唐の詩人。字は子美。先祖は長安南郊少陵の出で,杜少陵とも呼ばれる。西晋の文人将軍杜預の13代目という。祖父杜審言(645?-708?)は〈五言律詩〉の確立に功績を残した初唐の詩人で,杜甫も〈吾が祖 詩は古えに冠たり〉と誇り,その影響を強く受けた。唐王朝が繁栄から衰退,統一から崩壊へ向かう激動の時代を生きた彼は,社会の混乱や民衆の惨状をみずからの苦痛として深刻に表現した。時代の実相を余すところなく歌った数々の作品が,詩による歴史〈詩史〉と称され,彼自身もまた人類最高の詩人〈詩聖〉と敬われたゆえんである。
青年時代各地を漫遊し,744年(天宝3)洛陽ですでに名だたる詩人であった李白と出会い,権威に媚びないその自由な精神に強くひきつけられた。奔放と謹厳という好対照の性格をもつ2人の友情はこれ以後生涯変わらず,さらにこの時期に出会った高適(こうせき)を加えて,3人で過ごした日々は杜甫にとって生涯にわたる貴重な思い出となった。751年〈三大礼の賦〉が玄宗の賞賛を得るが,なかなか官職にはつけず,貧窮のため妻子との別居を余儀なくされ,755年ようやく微職を得たが,安禄山の反乱によってすべてを失った。756年(至徳1)新たに即位した粛宗のもとへ向かう途中,賊軍に捕らえられて長安に幽閉されたが,翌年長安を脱出し,鳳翔(ほうしよう)(陝西省)の行在所に赴いて左拾遺の職を授けられた。しかし,これも宰相房琯(ぼうかん)(697-763)の失敗を弁護したために粛宗の怒りに触れ,華州(陝西省)の地方官に左遷された。戦乱の続く中で生活に窮した彼は,759年(乾元2)官を捨てて四川に赴き,節度使厳武の保護の下で成都西郊の浣花(かんか)草堂に隠れ住んだ。その生涯中最も幸福で安定した時期で,このころ厳武の推薦で中央政府の役職工部員外郎の肩書を得,後世杜工部とも呼ばれるようになる。しかし厳武の死後,政情が不安定になったため,四川を離れ,以後現在の湖北・湖南両省一帯を漂泊し,770年(大暦5)湘江の舟中で病没した。
杜甫の詩は4期に分けられる。第1期は安禄山の乱以前で,自己の詩風を練り上げていく段階といえる。表面的には繁栄を誇りながらも不正と頽廃の度を深めていく社会への痛憤が,出征兵士の苦しみを歌った〈兵車の行(うた)〉や楊貴妃一族の専横を批判した〈麗人の行〉などを生み出した。第2期は安禄山の乱から四川に落ち着く48歳の冬までで,戦乱に揺れ動く社会に翻弄される自己の憂愁を歌い,長安幽閉中には〈春望〉や〈江頭に哀しむ〉など,よりどころを失った社会や人間に対する底深い悲しみをたたえた作品が作られた。また〈曲江〉は政治の理想と現実との隔たりを身をもって感じた左拾遺時代の作品であり,左遷された後には〈新安の吏〉〈潼関の吏〉〈石壕の吏〉(以上〈三吏〉),〈新婚の別れ〉〈垂老の別れ〉〈無家の別れ〉(以上〈三別〉)といった社会詩がある。第3期は成都時代で,落ち着いた生活は彼に精神的余裕をもたらし,自然や人間の善意が惜しみなく歌われる(〈客有り〉〈客至る〉〈春夜喜雨〉など)。第4期は四川を離れて死に至るまでの時期で,漂泊の生活の中で再び憂愁が歌われるが,個々の事象に対する詠嘆から,さらに進んで生きること自体がもつ憂いを探り当てようとする境地が表現される。〈秋興八首〉〈孤雁〉〈岳陽楼に登る〉など壮絶な悲哀感にあふれた作品が多い。杜甫は《詩経》《楚辞》以来の成果を吸収したうえで,古体・近体のいずれの形式においても新たな創造を成し遂げた。社会問題を多く歌う古体詩は,白居易の新楽府(しんがふ)のために道を開き,詩人の精神的苦悩を多く歌う近体詩は,晩唐の李商隠に大きな影響を与えている。杜甫の死後半世紀,中唐の元稹(げんしん)が初めて絶対的な尊崇の念を表白し,11世紀北宋時代に入るとその地位は不動のものとなった。日本では室町時代にようやく注目され始め,文学的に最大の影響を受けたのは芭蕉で,近代では島崎藤村が愛読者であった。昭和初期には鈴木虎雄による全訳注が完成。テキストとして宋代の木版本《杜工部集》20巻が現存する。
→唐詩
執筆者:荒井 健
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712~770
唐中期の詩人。襄陽(じょうよう)(湖北省襄陽県)の人。字は子美(しび)。不遇ななかで安史の乱にあい,甘粛東部から成都へ出,さらに長江を下って放浪した。誠実な人柄とあいまって,社会の不正を暴露し,あるいは憂愁のなかに人間への思いやりをこめた詩をよんだ。後世中国第1の詩人として「詩聖」と称せられる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…大詩人が群をなして出現するのは8世紀(盛唐)であった。この時期の三大詩人の出身をみると,王維と杜甫は下級貴族だが,李白の父は商人であったらしい。この3人がそれぞれ異なる宗教の信徒であることは注意すべきで,王維は仏教,李白は道教の信仰をもっていた。…
…李嶠(りきよう)(644‐713)の《雑詠》のごとき〈詠物〉の律詩の集が熟読されたことも,初唐の詩の影響の大きさを示すものであり,《凌雲集》以下の諸詩集に見える古体詩が盛唐以後の古体詩とスタイルを異にするのは,やはり初唐詩家の作を学んだものと思われる。 盛唐(710ころ‐765)の詩の名家は多いが,王維,李白,杜甫を例としよう。3人はそれぞれ異なった思想の持主で,王は仏教,李は道教の信徒であり,儒学の信念を守ったのは杜甫だけであった。…
…中国,唐の詩人。杜甫とあわせて〈李杜〉と並称される。異民族の居住地西域から四川に移住した父が富裕な商人であったらしい。…
※「杜甫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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