蔭山庄(読み)かげやまのしよう

日本歴史地名大系 「蔭山庄」の解説

蔭山庄
かげやまのしよう

和名抄」に記載される神埼かんざき郡蔭山郷の郷名を継承する中世の庄園で、庄域は北はいち川左岸の現福崎ふくさき八千種やちくさ・姫路市船津ふなつ町から南は右岸の同市砥堀とほりにかけての地域と推定される。九条満家公引付(九条家文書、以下断りのない限り同文書)永享三年(一四三一)一〇月条所収の文治二年(一一八六)六月二一日の後白河上皇所領寄進状案によると、蔭山南条の地が後白河院によって立券され、成立したと考えられている。建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に蔭山庄とみえ、自在王院領であった。九条家との関係を示すのは、正応六年(一二九三)三月一七日の九条家文庫文書目録が最初である。九条家が保持したのは領家職であった(建武三年八月二四日左大将家政所注進当知行地目録案)。永仁五年(一二九七)八月日の御所大番役定書案には当庄の村として山田やまだ村・砥堀村多田ただ村・「にしのむら」(仁色村か)しも村・なかの村がみえる。ほかに八千草村(現福崎町)があり、一音院(現京都市東山区)領であった(正和五年七月二七日一音院領目録)。この頃多田村や仁色にしき村に公文がいたことが確認できる(嘉暦三年七月一六日藤原宗氏請文)。鎌倉時代末期には地頭が仁色村公文職(嘉暦三年七月二〇日藤原義夏請文)や八千草村神田を押領するなどの濫妨を働いており(元応元年「比吉社領注進記」)、建武元年(一三三四)に至って当庄は下地中分された(同年三月一〇日後醍醐天皇綸旨)

暦応四年(一三四一)三月、京都を出奔した佐々木高貞が討っ手に追われ、影山(蔭山)で自害するという事件が起こっている(「師守記」同年三月二五日条・二九日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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