船津村(読み)ふなつむら

日本歴史地名大系 「船津村」の解説

船津村
ふなつむら

[現在地名]河口湖町船津

河口湖の南東岸にある。浅川あざがわ村から南下してきた鎌倉街道が当地で南東に折れ、上吉田かみよしだ(現富士吉田市)に向かう。東から南東にかけては富士山の溶岩台地けん丸尾、南は富士山裾野原野、西の木立こだち村との境付近は青木あおきヶ原溶岩流の末端が湖水にまで達している。

「勝山記」文亀四年(一五〇四)条に「舟津ツヽノ口ヲ小林尾張入道殿本主ノフサキ玉フ処ヲ取アケ玉ヘハ、花タテノカケナトヲホリ出玉フ、大クい水ヲ引也」とみえ、小林尾張入道による河口湖からの灌漑の模様を伝えている。同書永正一八年(一五二一)条には「大原舟津」とみえ、大原おおはら庄に含まれていた。同年二月一八日武田信虎が「大原舟津小林宮内丞」のもとを訪れた記述など、同書には河口湖南岸を拠点とした小林氏にかかわる記述が散見する。「高野山引導院過去帳」にも「鶴郡船津村小林対馬守」(天正一四年七月一五日)の名がみえる。

船津村
ふなつむら

[現在地名]姶良町船津・西姶良にしあいら四丁目

南西流する蒲生かもう川に南流する山田やまだ川が合流して別府べつぷ川となる合流点の西側、蒲生川の右岸に位置し、南は触田ふれだ村・平松ひらまつ村、帖佐ちようさ西餅田にしもちだ村。伝承によると、弘安年間(一二七八―八八)に了清(平山氏の祖)が山城石清水いわしみず宮を勧請して新正しんしよう八幡宮(現鍋倉八幡神社)を建立、その際に松原まつばら浦から別府川をさかのぼり着船した地を船津村と名付けた(三国名勝図会)。江戸時代は初め帖佐郷に属したが、元文三年(一七三八)重富しげとみ郷が創設された際に同郷所属となった。

建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西ちようささい郷の公田一四三町五段のうちに「船津十四丁ママ三百歩」がみえ、一丈四尺一寸五分の石築地役を負担している。

船津村
ふなつむら

[現在地名]鳥羽市船津町・鳥羽五丁目・幸丘さちがおか若杉わかすぎ町・大明西おあきにし

加茂かも川河口にあり、北は鳥羽町、南は河内こうち村に接する。加茂川によるわずかな沖積低地がある。鉢の尾はちのしり古墳、横穴式石室をもつ蛇池じやいけ古墳・岩穴口いわなぐち古墳がある。河内村岩倉いわくら村・松尾まつお村・白木しらき村とともに加茂五郷(加茂五ヵ村)の一で(志陽略誌)、その本郷が船津である。

「志摩国一の宮磯部まいり」の一節に加茂川は「これより広く舟津村の東側を流れ底深く水多きに末は潮と会せり。舟津村は西側にのみ家居ならび東側は痩藪一つらの外はかの深淵也。(中略)また北に曲れば西側にのみ家ありて東は川にて爰より北に多く舟を繋げり。

船津村
ふなつむら

[現在地名]芦原町舟津ふなつ温泉おんせん

加越台地の南麓の村。正保の越前国絵図によれば、同山地南麓を通って金津かなづ宿(現金津町)三国みくに(現三国町)を結ぶ交通路があり、その中ほどに交通路に沿ってある。宝徳二年(一四五〇)一二月一日、坪江つぼえ庄の政所高屋一鏡坊が奈良興福寺大乗院に注進した「近年安位寺殿御知行分」(「河口庄田地引付」大乗院文書)に「アクラヤフナトノムラウト今者杉江沙汰」と記す。この「フナトノムラ」は当村と思われる。また天正三年(一五七五)と思われる教如書状(福円寺文書)中の「(ふカ)ねと村」も当村をさすと考えられる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「嶽方坪江下郷」(五千六三二石余)に含まれていた。

船津村
ふなつむら

[現在地名]海山町船津

中里なかざと村の南方、船津川右岸の平地にある。「紀伊続風土記」に、

<資料は省略されています>

とあるが、「下里」の地名を記す史料はなく、慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「舟津村」と記されている。江戸時代初期に相賀組に属する。「紀伊続風土記」に「中新田の上にあるを阿薗新田といふ、古くは新田村といへり、戸数六十軒余あり」と記し、寛政五年(一七九三)の大差出帳(徳川林政史蔵)に「船津村より四町北往還筋に新田と申所御座候。

船津村
ふなつむら

[現在地名]金井町大和やまと 船津

北は馬場ばんば村、東は地持院じじいん川で、その先は吉井よしい沖の田地を隔てて水渡田みとだ村、西は中島なかじま村およびながヶ川を隔てて貝塚かいづか村、南は中島村および国府こうの川を隔てて下新穂しもにいぼ(現新穂村)国仲くになか丘陵の低位段丘にある。中世には、国府川をさかのぼって地持院川に入る辺りに船着場があったとみられる(佐渡金井町史)。元禄七年(一六九四)の検地帳(船津区有)には、地字屋敷まえ・地子田・垣の内・市場などの耕地がみえ、市場は馬場村との入会。「佐州巡村記」では、田三〇町九反余・畑九町三反余。戸口は四四軒・一八〇人。

船津村
ふなつむら

[現在地名]中津村船津

かみ(四七四・五メートル)の北西麓、日高川沿いにある。坂本さかもと岡本おかもと小津茂こつも滝本たきもとの四小村の総名。「続風土記」によればこの四小村は船津郷が分村して成立したという。慶長検地高目録によれば、村高四六三石余、小物成二石八斗二升三合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では田畑四四町一反余で高五五五石余、家数一一〇で内訳は本役一〇・半役四二・無役四〇・大工一・庄屋一・年寄三など、人数四〇五、牛数三九、川舟一七、鉄砲一二、池三。

船津村
ふなつむら

[現在地名]大牟田市船津町・船津町一―二丁目・南船津町みなみふなつまち一―四丁目・三里町みさとまち一―三丁目

藤田ふじた村の西、諏訪すわ川下流左岸の沖積地にある。船津潟ふなつがたがたなどの字名から、かなりの低湿地帯であったことが推定される。天正一五年(一五八七)高橋統増は三池みいけ郡に入部すると、家老高橋山城守に加納かのう早米来ぞうめき・船津など一千五〇〇石を宛行ったという(「玉峯時代記」三池立花家文書)。元和七年(一六二一)三池藩領となる。同年の郡村帳(同文書)に舟津村とみえ、玄蕃高三九九石余・新田高八斗余、小物成は山手米三斗・樹木年貢米三升余。文化三年(一八〇六)以降幕府領(のち柳川藩預)

船津村
ふなつむら

[現在地名]甲佐町船津

東は緑川を挟んで有安ありやす村に対し、西は標高六〇―二〇〇メートルの丘陵が続き、西山にしやま峠を越えて下益城郡下安見しもやすみ(現豊野村)、北は麻生原あそうばる村、南は下益城郡高木たかぎ(現中央町)に接する。建長三年(一二五一)九月二三日付の甲佐社領実検帳写(阿蘇家文書)に「一清松船津、若園、高柿已上三ケ村田数八丁三反中内 清松船津村五丁六反一丈 若園一丁四反四丈中 高柿村一反」とみえ、高柿村は船津村の南に接する高木村に比定される可能性がある。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「山口村古閑村等小村アリ」とみえ、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数八二・男二四〇・女二一八、駒馬一・駄馬四五、本高七八三石二斗余、田五町七反八畝余・畑六四町七反七畝余、新地田畑三町三反四畝余、諸開(野開・剪開・根柴山跡・請藪・一毛畝物)五町四反二畝余と茶床がある。

船津村
ふなづむら

[現在地名]美山町大字つるおか 舟津ふなづ

鶴ヶ岡一九ヵ村の一。棚野たなの川の支流西にし川の左岸に開けた山間集落。北西(上流)松尾まつお村、南東(下流)殿との村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高七二・四七四石、旧高旧領取調帳では一一八・三三八石。

船津村
ふなつむら

[現在地名]河内町船津

さんノ岳山系の裾野にあり、西は有明海に面し、北は白浜しらはま村、南は河内村に接する。慶長年間(一五九六―一六一五)に記された栗崎完国・牛嶋公縄覚書写(牛島文書)に建久九年(一一九八)の年号があり、「河内船津之村、舟を付、城役之御取成」とある。五町手永に属し、「国誌」に「尾跡ト云小村アリ、海岸ハ比屋市店ノ如シ」とあり、六枚立の高札場があった。

船津村
ふなつむら

[現在地名]長崎市旭町あさひまち

稲佐いなさ村の南、長崎浦の西岸にあたる。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、正保国絵図に船津村として高一二二石余。元禄国絵図では舟津とする。享和二年(一八〇二)の長崎絵図では村域と推定される地にうらと記される入江がある。天保郷帳では浦上村のうち。安政三年(一八五六)の浦上村淵惣竈目録(「御用留」志賀家文書)では船津浦として竈数二二(漁師)、家数二七・人数二〇一。稲佐船津いなさふなつの吉右衛門は水主であったとき唐船と抜荷を行ったものの自首、その後五番唐船との抜荷が露見したため鼻そぎの刑に処されたが、享保一五年(一七三〇)懲りずに唐品の受取に使いを出したところ捕らえられて獄内で死罪に処された。

船津村
ふなつむら

[現在地名]出雲市船津町

斐伊川中流左岸にあり、南は宇那手うなて村、北は大津おおつ村、東は上之郷かみのごう村。明暦四年(一六五八)の舟津村御検地帳によれば田方二五町余・分米三二四石余、畑方一六町九反余・分米九八石余、屋敷数一五(うち役屋敷一〇)とある。元禄十年出雲国郷帳では高五六三石余、寛文四年(一六六四)の本田高五五九石余・新田高四石余。「雲陽大数録」では高五七〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では田二三町余・畑一六町余、家数八五・人数四三七、牛三五・馬八、威鉄砲二、楮二千四八二株、船五を記す。「郡村誌」では田三九町八反・畑二〇町七反・山林一五八町八反、戸数一〇八・人数四七二、牛四三・馬三、船七・人力車三、大工三、物産に綿二千五〇〇貫・織木綿一千三〇〇貫とある。

船津村
ふなつむら

[現在地名]宍喰町船津

塩深しおふか村の西に位置し、野根のね川が南流する。西部の船津谷・僧都そうず谷の西に吹越ふきこし峠がある。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「舟津村」とともに地内の「さう津村」が記される。正保国絵図では「宍喰之内 船津村」とあり、また村内の僧都谷も「宍喰之内 僧都村」と記される。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では両村ともに宍喰浦の枝村としてみえる。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高一二石余。正徳六年(一七一六)の諸番所改帳に「船津分一所」とみえる。「阿波志」によれば、高三二石余、家数二八・人数九〇、猪嶺があるという(阿波志)

船津村
ふなつむら

[現在地名]八代市二見洲口ふたみすぐち

洲口村の南西にあり、西は八代海に臨む海辺の村。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」では二見村の小村と記されている。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「国誌」に高二七石九斗余とあり、小村に明神田があった。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では二見村懸りの村。

船津村
ふなつむら

[現在地名]頸城村船津

北江きたえ用水に沿い、東に森下もりした新田、西に榎井えのい村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では、「柿崎弥二郎分此外拾壱方分船津村 下」が大沼沢地のほとりに描かれ、本納四〇石七升七合四勺・縄高七二石一斗六升四合、家六軒・一八人とある。正保国絵図に高二三一石余とある。

船津村
ふなつむら

[現在地名]水俣市八幡はちまん町一丁目・同三丁目・洗切あらいきり

水俣川の河口にあり、昭和九年(一九三四)完工の水俣川改修以前は、水俣川右岸に突出たように形成された三角洲の上にあった。はま村に囲まれ、東部に陳内じんない村があり、北は八代海に面する。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に浜村の小村として舟津村の名がみえ、屋敷数二四、男八四・女六一が記され、牛馬はいない。

船津村
ふなつむら

[現在地名]富士市船津

駿東すんとう郡に所属。浮島うきしま沼の北西部に位置し、西は西船津村根方ねがた街道が東西に走る。寛永九年(一六三二)幕府領となる。寛永改高附帳に村名がみえ、田方一八九石余・畑方五六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報