蔵田村(読み)くらたむら

日本歴史地名大系 「蔵田村」の解説

蔵田村
くらたむら

[現在地名]甲府市城東じようとう一―二丁目・若松町わかまつちよう青沼あおぬま一丁目

城下南東方にある。村名は古くは倉田とも書いたといい、「くらだ」とも読む(甲斐国志)。永禄四年(一五六一)の番帳の八一番に「くら田の禰き」とあり、当地白山権現(現甲斐奈神社)神主とみられ、八日市場ようかいちばの神主(現山八幡宮神主か)とともに府中八幡宮勤番を命じられていた。同一三年三月一九日には若月五郎兵衛尉に蔵田の五貫などが宛行われた(「武田家印判状」若槻朗家文書)。武田家滅亡後の天正一〇年(一五八二)六月一二日には加賀美右衛門尉に蔵田のうち五貫文などが本領として安堵され(「徳川家奉行連署証文写」古今消息集)、同年一一月七日と翌一一年三月二八日に本領として安堵された(「徳川家印判状写」譜牒余録など)。同一〇年一二月七日には一〇貫文が米蔵六郎右衛門(信継)本給として安堵され(「徳川家康印判状」米倉文書)、翌一一年三月二八日には飯田甚五右衛門尉に二〇貫文(「徳川家康印判状写」甲州古文書)、五月六日には坂本武兵衛(忠豊)に一貫九四三文が安堵されている(「徳川家康印判状写」記録御用所本古文書)


蔵田村
くらだむら

[現在地名]鳥取市蔵田

小島こじま村の西に位置する。倉田とも記された。村名は本来滝房たきふさ村で、かつて倉田くらだ八幡宮が大社であった頃、同社の米蔵があったことから倉田と称するようになったといい、村内に堀に囲まれた三反ほどの屋敷跡があり、その跡と伝えられる(因幡志)。拝領高は四三二石余、本免六ツ二分。安政五年(一八五八)の生高四八七石余、物成二五九石余。山役米三石三斗余・藪役銀三匁三分余を課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)落合・矢野・河崎・野村の四氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二三、安政五年の竈数二〇(村々生高竈数取調帳)、同年の余業に従事する家数六(「邑美郡村々余業人取調帳」太田垣家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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