藤ヶ谷村(読み)ふじがやむら

日本歴史地名大系 「藤ヶ谷村」の解説

藤ヶ谷村
ふじがやむら

[現在地名]沼南町藤ヶ谷

高柳たかやなぎ村の東、手賀てが沼に流入する金山かなやま落の谷津最奥端に位置する。東は金山落を挟んで富塚とみつか(現白井町)。村内をなま道が通る。同道は利根川沿いの布佐ふさ河岸(現我孫子市)で陸揚げされた鮮魚を、江戸川沿いの松戸河岸に運ぶ道として利用され、当地は荷駄通行の中継地として栄えた。建武三年(一三三六)一一月二二日の斯波家長奉書(相馬文書)によれば、足利尊氏のはからいによって相馬そうま郡内の「藤谷相馬六九郎等跡」が闕所として相馬親胤に給与された。「相馬」や「□九郎」は後醍醐天皇方に荷担したため当地などを没収され、一族の親胤に与えられたものと思われる。応永二年(一三九五)の追筆のある南相馬郡等田数注進状案(同文書)には「 ふちかやのむら上下十三丁一反」とある。地内の薬師堂には貞治三年(一三六四)銘の阿弥陀一尊の板碑が残り、同じく持法じほう院・香取神社などには文明(一四六九―八七)から永禄(一五五八―七〇)にかけての武蔵型板碑二十数基が散在する。


藤ヶ谷村
ふじがたにむら

[現在地名]下関市大字藤ヶ谷

の山(二六八・二メートル)の北西麓に広がる山間小村。西と南は椋野むくの、北はいちみや、東は高畑たかはた前田まえだの各村に接する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。

応永三〇年(一四二三)二月二五日付中村専阿書状写(長門一宮住吉神社文書)に「藤谷」とみえる。「地下上申」に「藤ケ谷村」と記され、「当村之儀は往古より藤の木数多によつて藤ケ谷と申伝候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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