高柳村(読み)たかやなぎむら

日本歴史地名大系 「高柳村」の解説

高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]藤枝市高柳一―四丁目・高柳・兵太夫ひようだゆう高洲たかす一丁目・高洲・田沼たぬま四―五丁目・大新島たいしんじま

築地ついじ村の南に位置し、大井川扇状地の微高地に立地する。「和名抄」の益頭ましず高楊たかやなぎ郷の遺称地とされる。貞和四年(一三四八)一二月一〇日の足利直義御教書写(今川家古文章写)によると、足利直義は先年駿河守護今川範国に預けた高柳太郎丸名などの正税を免除しているが、この高柳は当地のことか。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)に高柳とあり、当地には浅間社(静岡浅間神社)の流鏑馬千蔵方の郷役二貫一〇〇文が課せられている。永禄四年(一五六一)五月二八日、今川氏真が安堵した伊久美信吉の所領のなかに高柳郷五貫一三〇文がある(「今川氏真判物写」浅羽本系図)。元亀三年(一五七二)九月二日、武田氏は向井伊賀守正重に「高柳之森」などでの竹林伐採を命じた(「武田家朱印状写」甲州古文集)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]沼南町高柳・高南台こうなんだい、松戸市高柳

現町域の南部、手賀てが沼に流入する大津おおつ川の中流に位置する。西に高柳新田があり、同新田のさらに南西側には野馬堀を境に中野なかの牧が広がっていた。建武三年(一三三六)一一月二二日の斯波家長奉書(相馬文書)によれば、足利尊氏の計らいによって相馬そうま郡内「高柳村」などが闕所として相馬親胤に給与されている。同時に与えられた津々戸つつど(現茨城県谷和原村)ふじ村の旧領主が相馬氏とあるから、当地も相馬一族の支配地であったと思われる。応永二年(一三九五)の追筆のある南相馬郡等田数注進状案(同文書)には「 たかやなきのむら 九丁三反半」とある。また「実悟記拾遺」には「善性御房下総国豊田・飯沼・高柳」とあり、親鸞の弟子善性の布教活動の拠点の一つであった。村の北部、大津川の東側台地上には戦国期の築城といわれる高柳城がある。なお現沼南町高柳地区には徳治二年(一三〇七)銘の阿弥陀一尊板碑をはじめとして、約四〇基の武蔵型板碑が残存する。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]喜多方市熊倉町くまぐらまちみやこ

大塩おおしお川を隔てて熊倉村の東、雄国おぐに山の西麓に位置する。南は小沼おぬま村・吉沢よしざわ村。小沼組(古くは大塩組)に属し、檜原ひばら峠越米沢街道の上街道が通る。本村の北東方に離れて小沼沢おぬまざわ滝沢たきのさわ(滝ノ沢)の各端村がある。村の南東には昔坂井雅楽某が住したという館跡が、村の東には野部清吾某が住んだという館跡がある(新編会津風土記)。天正一三年(一五八五)五月関柴せきしば村松本備中の内応により伊達政宗の兵が会津に侵入したとき当地の地頭戸石四郎兵衛は備中に味方し、蘆名家部将中目式部に討たれたという(蘆名家記)。また当地では永禄―天正(一五五八―九二)頃、二・七の日の六斎市が立っていたといい(「市井記」喜多方市史資料叢書)、地内に残る検断分けんだんぶんという地字は高柳市検断に与えられた地を表すものと考えられる。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]寝屋川市高柳一―七丁目・高柳栄たかやなぎさかえ町・池田西いけだにし町・春日かすが町・上神田かみかみだ一―二丁目・黒原橘くろはらたちばな町・長栄寺ちようえいじ

ふる川上流右岸の平坦地。茨田まんだ郡に属し、東は大利おおとし村、西は対馬江つしまえ村。東西に交野かたの道が通り、道沿いに二つの集落がある。東番ひがしばん西番にしばんといい、西番は対馬江村の集落と接し、集落規模もやや大きく、制札場もあった。中世は高柳庄の地。本願寺証如の「天文日記」天文五年(一五三六)二月三日条によると、石山いしやま本願寺(跡地は現東区)で父の三十三回忌供養を行った人物がおり、同書に「十七ケ所高柳之空了」の檀徒と記される。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]新井市高柳

せき川の左岸、渋江しぶえ川の右岸に立地。応永一八年(一四一一)八月一九日の居多神社社領注文(居多神社文書)に「頸城郡分 下郷」として「一段 高柳税所給」とあり、居多こた神社(現上越市)の社領があった。年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に高柳の名がある。天和三年郷帳では高三七七石五斗、うち山高七石八斗で、ほかに新田高一四石九斗余がある。元禄一五年(一七〇二)岩村いわむら(現岐阜県恵那郡岩村町)城主丹羽氏音の陣屋が置かれた。宝永三年(一七〇六)の越後国高田出雲崎沢海・与板領高訳ケ覚帳(岩沢源三氏蔵)によると、頸城くびき郡内で大崎郷三千三六六石余、上板倉郷一千五石余、下板倉郷・武士郷一千四四九石余、里五十公郷一千九八七石余、山五十公郷一千三五一石余、保倉谷五六五石余、下美守郷二七三石余を支配した。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]大安町高柳

員弁川右岸、平塚ひらつか村の北東にあり、員弁街道を中心として集落を形成している。集落の北を東に流れた源太げんた川が村の東端で員弁川に合流する。「神鳳鈔」(新校群書類従本)に「外宮高柳御厨二十四丁、三石」がみえる。同書奥書の注記に従えば、少なくとも建久四年(一一九三)には、伊勢神宮(外宮)領となっていたと推定しうる。応永二九年(一四二二)に足利義持の御教書(「氏経卿記」神宮文庫蔵)により一切経料所として内宮鎮国寺領と認められた。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]名取市高柳

旧名取川の自然堤防上に位置し、東は小塚原こづかはら村、西は下余田しもよでん村、南は大曲おおまがり村に接する。文禄五年(一五九六)二月吉日の名取高柳之内北方ゆりあけ浜名寄帳(伊達家文書)が残り、古くは東方閖上浜ゆりあげはまも含む地域であった。正保郷帳では田五二貫七五一文・畑四貫六〇二文。「封内風土記」によれば戸数二九。「名取郡地誌」では戸数四五、男一六九・女一六九、牡馬一六、日本形船一(五〇石未満川合木船)。北方から東流する小塚原堀、同堀から分れる高柳堀が流れる。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]木更津市高柳・岩根いわね一―四丁目・高砂たかさご一―三丁目・本郷ほんごう一―三丁目・高柳一―三丁目・若葉町わかばちよう西岩根にしいわね

江川えがわ村の東に位置し、小櫃おびつ川最下流左岸を村域とする。中世は高柳郷に含まれた。正保国絵図に村名がみえ、高六四〇石。元禄郷帳では高一千一八九石余、天保郷帳では高一千二二六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によれば家数二二二、旗本杉浦・松浦両氏の相給。文化(一八〇四―一八)末年の上総望陀郡石高帳(慶応大学蔵)では旗本杉浦・松浦・芝田の三家領。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]八鹿町高柳

下八木しもやぎ村の東、八木川の中流域に位置し、山陰道が通る。東は国木くぬぎ村。本村集落は村の東部、八木川北岸の河岸段丘上に発達し、北岸の中央部谷沿いに谷村たにむら、西部谷沿いに万々谷ままだに、南方対岸に高柳向たかやなぎむこうの枝村がある。弘治三年(一五五七)五月吉日の「但馬国にしかた日記」には「高柳 道くわん助三郎殿」とある。文禄四年(一五九五)出石いずし(現出石町)に入部した小出吉政(のち出石藩主)の所領となる。慶長一八年(一六一三)出石藩主小出吉英の和泉岸和田藩主就任に伴って岸和田藩領となり、元和五年(一六一九)吉英が出石藩に再封になると出石藩領に復した。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]滑川市高柳

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、北東は小林こばやし村、西は堀江ほりえ村。「祇園社家記録」応安五年(一三七二)一一月一一日条によると、堀江庄南方みなみがた大力だいりきの年貢が割符で送られたという記録に続いて、「北堀江高柳輩者一円管領」とあり、高柳は当地のこととも考えられる。正保郷帳では高四八一石余、田方三一町五反余・畑方五反余、新田高二一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四〇九石、免三ツ七歩(三箇国高物成帳)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]加茂市上高柳かみたかやなぎ下高柳しもたかやなぎ

加茂川の上流右岸、大谷おおたに村の南にあり、支流高柳川に沿って上流へ下高柳・上高柳の集落が続く。正保国絵図では高三七〇石余で村松藩領。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では二八五石余、家数四八。宝暦九年(一七五九)の七谷組紙漉船数改帳(山崎徳左氏蔵)によれば、紙漉軒数は下高柳村一四・上高柳村八で、船役はそれぞれ一四船半と一〇船。旧高旧領取調帳では上高柳村一八〇石余、下高柳村は二二九石九斗余。上高柳の北にある要害ようがい(二二七メートル)御殿ごてん山ともいわれ、山頂に三重の空堀跡を残す高柳城跡がある。


高柳村
たかやぎむら

[現在地名]佐久市大字高柳

東は千曲川を隔てて田野口たのくち村・上中込かみなかごみ(現南佐久郡臼田町)、南は臼田うすだ(現南佐久郡臼田町)、西北は鍛冶屋かじや村に接する平坦地で野沢田圃を潤す八ヶ用水の取入口である。

中世は伴野ともの庄に属した。建武元年(一三三四)の後醍醐天皇綸旨(大徳寺文書)によると天皇が伴野庄高柳郷を誤って継義なるものに与えたため、この日大徳だいとく寺に還付したことがみえる。続いて翌建武二年伴野庄の年貢員数を大徳寺に注進(大徳寺文書)した中に「高屋木 八十貫文」と記載がある。「蔗軒日録」文明一六年(一四八四)一〇月二三日条に「高柳相去一里、友野殿ノ在所ヲハ、マイ山ト云、四方有沼田、三方ハ町、山城也」と記されている。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]児玉町高柳

長沖ながおき村の西に位置し、西は飯倉いいぐら村、北は塩谷しおや村・金屋かなや村。南の小平こだいら村との境を身馴みなれ川が流れ、同川を遡上して秩父へ至る道が通る。天正五年(一五七七)一〇月九日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、那賀なか郡の吉橋和泉守とその弟の高柳因幡守は村岡河内守の本領および足軽・同心衆の家までを宛行われているが、高柳因幡守は当村に居住してその在地名を名乗ったといわれている(風土記稿)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]中原町大字原古賀はるこが字高柳

鷹取たかとり山の南山脚の南に立地する。正保絵図に村名がみえる。

村の北西の丘陵地域には大古墳群跡(大円墳「大塚」が残存)があって、この地方には古代に相当規模の集落があったものと推定できるが、佐賀藩の藩政期の村高はわずかに九八石余(領知村高)。貞享四年(一六八七)改の郷村帳では地米(年貢)高は八三石余。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]栗橋町高柳

佐間さま村の南西にあり、村の北西を古利根川、南をしま川が流れ、島川沿いに堤敷一一間の島中囲堤がある。日光御廻おまわり道が通る。中世初期から開発が進み、高柳郷が成立していた。田園簿に村名がみえ、田高五一石余・畑高五四〇石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本酒井領。天保三年(一八三二)の島中川辺領拾三ヶ村高書上帳(小林家文書)・旧高旧領取調帳などでも同領。元禄郷帳・天保郷帳では高六一六石余であるが、前掲高書上帳などでは高七五六石余となっており、幕末頃までに高柳新田一五〇石余を含めて把握されることが多くなったものと思われる。「風土記稿」によると家数一一四。助郷は日光道中中田なかだ宿(現茨城県古河市)・栗橋宿に出役している(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]岡山市高柳・高柳東町たかやなぎひがしまち高柳西町たかやなぎにしまち下伊福本町しもいふくほんまち下伊福西町しもいふくにしまち大安寺南町だいあんじみなみまち一丁目・北長瀬本町きたながせほんまち野田のだ四―五丁目

島田しまだ村の西にあり、西と北は大安寺村枝村の正野田しようのだ、南は野田村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高七二七石余。正保郷帳では枝村に市場村・北ノ丸村が載る。「備陽記」によると田畑四一町三反余、家数三六・人数一七二。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千二九〇石余、蔵入と家臣一〇名の給地。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]西那須野町高柳・新南郷屋しんみなみごうやむつみ東三島ひがしみしま一丁目・南郷屋みなみごうや五丁目

北は富山とみやま村、西・南は南郷屋村・石林いしばやし村、東は津室つむろ川を挟んで槻沢つきぬきざわ村。天正一八年(一五九〇)大田原晴清が豊臣秀吉から安堵された所領のうちに「高柳」とみえ、富山などとともに三二石五斗余とみえる(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。以後大田原藩領、幕末には幕府領(旧高旧領取調帳)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]旭志村ふもと

くら岳西麓、小原おばる村の東にある。天正九年(一五八一)一二月一三日の合志親為宛行状(合志文書)に「高柳」とみえ、合志親為は大津対馬に与える六五町のうち、当村より四町の地を与えた。慶長一三年(一六〇八)の検地帳によれば、家数六三、人数五八(うち屋敷持二三)、牛馬一九、田一六町九反余、畠・屋敷合せて五六町二反余、分米五六一石余。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳では平川組に属し、高柳村・高柳村出分に分れている。高柳村は戸数八・家数五二、人数五四、牛馬一八、高三〇〇石。高柳村出分は戸数一二・家数七四、人数六三(うち名子六)、牛馬二三、高二六一石余であった。その後合志郡大津手永に属し、「国志草稿」は「二百六十三石ヨ 出分ト云小村アリ」と記す。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]三本木町高柳

大崎おおさき平野南方の純農村地帯。北は多田ただ川を挟んで西荒井にしあらい(現古川市)、南は新沼にいぬま村・南谷地みなみやち村で、その南に鳴瀬なるせ川が流れる。東は蒜袋ひるぶくろ村。西部に要貝ようがい(要害)屋敷と称される屋敷がある。屋敷の裏林に「南無阿弥陀仏 建武元甲戌十月廿一日性阿尼敬白」と刻まれた古碑があり、要貝屋敷の始祖高柳七郎右衛門の供養のため建立されたとされる(三本木町誌)。「安永風土記」の代数有之御百姓書出に要貝屋敷に居住する肝入与兵衛があげられ、先祖高柳七郎右衛門、初代高柳蔵人以下の名が書かれ、七郎右衛門以前の名前と、七郎右衛門と蔵人の間の代数は不明という。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]熊谷市高柳

幡羅はらおし領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地の扇央部微高地に位置し、北は中山道を境にたま村、西は荒川の旧河道(古堀という)を境に新堀にいぼり村。弘安一〇年(一二八七)九月五日の関東御教書(服部玄三氏所蔵文書)によると、鎌倉鶴岡八幡宮の供僧円幸法眼の訴えにより「武蔵国高柳村」の所当未進分の完済が高柳八郎後家に命じられている。南北朝前期のものとみられる一一月一一日の頼仲書状写(福原新一氏所蔵文書)では、鶴岡八幡宮神官が「尻郷内高柳村」に対しての多年にわたる地頭の押領を停止するよう高重茂に訴えており、当地はみかじり郷に含まれていたと考えられる。


高柳村
たかやなぎむら

矢部やべ川左岸の現高柳一帯に比定される。治承二年(一一七八)七月五日の別宮掃除役定文(「鷹尾社祭礼関係文書写」鷹尾家文書/平安遺文一〇)によると、「高柳村」の藤二郎・藤三郎・多次・土入道古家・小藤太・本司貫首・高別当古家ら大宮司一五家に鷹尾たかお(現大和町)掃除役が充てられていた。また鷹尾社祭礼記録(鷹尾社祭礼関係文書写/筑後鷹尾文書)には承久元年(一二一九)九月九日行事は「西郷高柳上三郎大宮司」、冬大使は「高柳舟三大夫」とみえ、この舟三大夫は建保四年(一二一六)に商人勝陳坊・梶取らとともに高良こうら(現久留米市)の神人と乱闘し、その報復のため高良大衆神官らが舟三大夫の家や船・納所を焼いたという事件の当事者だった。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]丸岡町高柳

牛之島うしのしま村の南に位置する。「親元日記」の寛正六年(一四六五)九月八日条に「御母御知行越前国高柳地頭方事各別之処領家方南都光明院領・代官甲斐備後四郎ヨリ段銭検断等事動懸之及違乱云々」とあるのは当地のことと考えられる。

村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、正保郷帳によれば田方四一八石余・畠方五四石余。天保九年(一八三八)頃の御巡国様ニ付御案内手帳(「越前宗門帳」所収)によれば家数三一、馬一四頭であった。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]金沢市高柳町

乙丸おとまる村の北、浅野川下流右岸に位置。金腐かねくさり川との間のデルタ地帯。正保郷帳によれば高一千九三石余、田方六九町四反余・畑方三町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一千一一九石、免七ツ一歩、小物成は山役三四九匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]松戸市高柳、東葛飾郡沼南しようなん町高柳・高南台こうなんだい

中野なかの(のちの五香六実村)の北東、大津おおつ川の中流域にあり、近世には相馬そうま郡に属していた。


高柳村
たかやなぎむら

[現在地名]波野村滝水たきみず 高柳

村域北側を滝水川が東流し、東は滝水村、西は波野村、南は中江なかえ村、北は楢木野ならきの村と接する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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