藤井寺村(読み)ふじいでらむら

日本歴史地名大系 「藤井寺村」の解説

藤井寺村
ふじいでらむら

[現在地名]藤井寺市藤井寺一―四丁目・ふじおか一丁目・東藤井寺ひがしふじいでら町・藤井寺公団ふじいでらこうだんおか一丁目・御舟みふね

現藤井寺市の西端、ミサンザイ古墳北方に位置し、集落は葛井ふじい(剛琳寺)門前に広がる。南東方野中のなか村からミサンザイ古墳東側を通り、当地を経て岡村・小山こやま村・津堂つどう村に向かい、やがて平野郷ひらのごう(現平野区)に至る道があり、大坂道とよんだ。地名葛井寺にちなむとも、平安中期に同寺を再建した藤井安基によるともいい、「大阪府全志」はもと藤井村と称したが、のち改称したという。古くには志紀郡に属し、長野ながの(和名抄)の地であったと考えられているが、仁平四年(一一五四)年紀を有する葛井寺旧蔵大般若経巻四九五(村手重雄氏蔵)の奥書に、葛井寺の所在を記して「(ママ)南郡土師郷」とあり、「拾芥抄」にも丹南郡と記されている。さらに「大乗院寺社雑事記」長禄二年(一四五八)七月一一日条に「東金堂領河内国岡村庄之内剛琳寺」、同八月三日条に「河内国丹南郡土師郷之内、興福寺東金堂末寺剛琳寺」とある。これらから平安時代後期以後の葛井寺所在地は丹南郡土師はにし郷とよばれていること、室町時代には興福寺領岡村おかむら庄に含まれていたことが知られる。近世には丹南郡に属する。

南北朝期から室町時代、当地はしばしば戦場となっており軍忠状や諸書に散見する。延元二年(一三三七)三月日の岸和田治氏軍忠状案(和田文書)に「同十日、細川兵部少輔、同帯刀先生等為大将軍、寄来古市之間、馳向野中寺東、防戦之処、逆類等引退之間、追懸藤井寺西、(中略)就中細川帯刀先生討死之時者、於藤井寺前大路」とみえ、河内国守護細川顕氏らが南朝楠木一党と古市ふるいち野中やちゆう(現羽曳野市)付近で戦い、敗れて当地に逃れ、藤井寺前大路で顕氏弟帯刀直俊が戦死したことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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