藤原俊憲(読み)ふじわらのとしのり

改訂新版 世界大百科事典 「藤原俊憲」の意味・わかりやすい解説

藤原俊憲 (ふじわらのとしのり)
生没年:1122-67(保安3-仁安2)

平安末期の廷臣。少納言入道通憲(信西)の長男。父通憲は出家前高階氏を称したが,俊憲は文章博士藤原顕業の養子となり,19歳で勧学院学問料を賜り,23歳で対策(方略試)に及第し,守仁親王(二条天皇)の立太子後,東宮学士に任ぜられた。父譲りの秀才である。ついで保元の乱後,右少弁,左少弁,右中弁等を歴任する一方,蔵人,蔵人頭を兼帯し,父信西入道の手足となって宮中府中に活躍し,1159年(平治1)参議に昇ったが,同年末の平治の乱に際し解官配流に処されたのを機会に出家した。著書に《貫首秘抄》《新任弁官抄》がある。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原俊憲」の解説

藤原俊憲

没年:仁安2.4.10(1167.4.30)
生年保安3(1122)
平安末期の公卿藤原通憲(信西)と高階重仲の娘の子。はじめ文章博士藤原顕業の養子となり,儒官の道に進み,後白河天皇践祚に伴って東宮学士となった。保元の乱後は父信西による政策推進を助け,保元2(1157)年五位蔵人に補せられ,左少弁,左衛門権佐,東宮学士を兼帯。さらに翌年の二条天皇践祚により後白河院政が開始されると,院の別当となる一方蔵人頭に補せられ,二条朝廷と後白河院庁とをつなぐパイプ役となった。平治1(1159)年参議に上り,従三位近江権守となるも,同年,平治の乱に遭って解官配流を宣せられ,出家。宰相入道と呼ばれたが,その後目立った事跡はない。有能,実直な官吏であり,特に文章に優れていたことで有名。『新任弁官抄』『貫首秘抄』等の公事に関する有為な著作を残している。

(木村真美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原俊憲」の解説

藤原俊憲 ふじわらの-としのり

1122-1167 平安時代後期の公卿(くぎょう),漢学者
保安(ほうあん)3年生まれ。藤原通憲の長男。久寿2年守仁親王(のち二条天皇)の東宮(とうぐう)学士となる。蔵人頭(くろうどのとう)などをへて,平治元年(1159)参議。平治の乱に連座し,越後(えちご)に流されて出家。2年ゆるされて京都にもどった。仁安(にんあん)2年4月10日死去。46歳。法名は真寂。著作に「貫首(かんじゅ)秘抄」「新任弁官抄」など。

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