藤原光俊(読み)ふじわらのみつとし

朝日日本歴史人物事典 「藤原光俊」の解説

藤原光俊

没年建治2.6.9(1276.7.21)
生年:建仁3(1203)
鎌倉時代の歌人。法名真観。権中納言光親と順徳天皇の乳母経子の子。親子で順徳天皇に仕え,そのため承久の乱後父は斬首,光俊も流罪となる。貞応1(1222)年帰洛。寛喜・貞永年間(1229~33)ごろより藤原定家に師事し,『新勅撰集』に4首入集。嘉禎2(1236)年急に出家した。定家の没後歌壇を主導していた藤原為家(御子左家)と対立。藤原知家らと共に反御子左派として活躍,歌合の主催,私選集編纂などを行った。また鎌倉の将軍宗尊親王の歌道師範となり,『続古今集』の選者に加えられるが,親王の廃位とともに失脚,為家の没後歌壇に復帰するがまもなく没した。その京都歌壇における反御子左派の活動,および鎌倉歌壇における指導性が注目される。<著作>『閑放集』『簸河上』<参考文献>安井久善『藤原光俊の研究

(田渕句美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原光俊」の解説

藤原光俊 ふじわらの-みつとし

1203-1276 鎌倉時代の公家,歌人。
建仁(けんにん)3年生まれ。藤原光親の子。順徳天皇に近侍し,承久(じょうきゅう)の乱で筑紫(つくし)に配流。嘉禎(かてい)元年(1235)右大弁となるが,翌年出家した。将軍宗尊(むねたか)親王の歌道師範。反御子左(みこひだり)派として活躍し,「続古今和歌集」撰者のひとりとなる。歌論書に「簸河上(ひのかわかみ)」。勅撰集に100首がはいっている。建治(けんじ)2年6月9日死去。74歳。法名は真観。通称は弁入道。

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