朝日日本歴史人物事典 「藤原光俊」の解説
藤原光俊
生年:建仁3(1203)
鎌倉時代の歌人。法名真観。権中納言光親と順徳天皇の乳母経子の子。親子で順徳天皇に仕え,そのため承久の乱後父は斬首,光俊も流罪となる。貞応1(1222)年帰洛。寛喜・貞永年間(1229~33)ごろより藤原定家に師事し,『新勅撰集』に4首入集。嘉禎2(1236)年急に出家した。定家の没後歌壇を主導していた藤原為家(御子左家)と対立。藤原知家らと共に反御子左派として活躍,歌合の主催,私選集編纂などを行った。また鎌倉の将軍宗尊親王の歌道師範となり,『続古今集』の選者に加えられるが,親王の廃位とともに失脚,為家の没後歌壇に復帰するがまもなく没した。その京都歌壇における反御子左派の活動,および鎌倉歌壇における指導性が注目される。<著作>『閑放集』『簸河上』<参考文献>安井久善『藤原光俊の研究』
(田渕句美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報