平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。名匠定朝の系統である慶派に属し,父は康朝の弟子とされる康慶である。12世紀後半期は京都に根拠を置く院派・円派が貴族の信任を得て勢力を誇り,定朝の孫の頼助以来興福寺に所属して奈良に中心を置く慶派はふるわなかった。しかし,康朝の子成朝が鎌倉に下るなど,しだいに慶派は関東武士の間に活躍の場を求め,運慶の代に入り,東大寺復興の造仏に至ってその勢力関係は逆転する。慶派と関東武士との結びつきは,院派・円派が京都の旧権力者に重く用いられていたため,これに反発する東国勢力が慶派を用いたこと,また慶派の新鮮な力強い彫刻表現に力への憧憬の念をもつ東国武士たちが共感をいだいたことによると思われる。運慶らは,成朝との関係から関東武士に重用されたのであろう。諸記録に見られる運慶の活躍は,造仏の盛んだった鎌倉初期にあっても際立っており,実力もさることながら,人気の程が察せられる。
しかし現存する彼の確実な作品は少なく,奈良円成寺の大日如来像(1176),静岡願成就院の阿弥陀三尊(脇侍は現存せず)・不動明王・毘沙門天像(以上1186),神奈川浄楽寺の阿弥陀三尊・不動明王・毘沙門天像(以上1189),高野山不動堂の八大童子像(1197,2軀は室町期の後補),奈良興福寺北円堂の弥勒三尊像(脇侍は現存せず)および同寺の無著・世親像(以上1212ころ),快慶と合作になる東大寺南大門の金剛力士像(1203)にすぎない。運慶の作風は康慶にすでに見られた写実主義的傾向をさらにおし進め,平安末期に流行していた定朝様の形式化した貴族趣味的な像に対し,男性的な風貌,堂々たる体軀,複雑で彫の深い衣文,自由な動きをもつ姿態などに特色が見られる。定朝様に対する意識的な反抗は,平安王朝文化の否定という,当時の一般的な文化現象に通じるといえる。そして運慶様の基礎は奈良の地で天平以来の彫刻の古典を学び総合したことにあるだろう。彼の仕事の足跡をたどると,最初期の作であり20歳代の作と思われる円成寺像は,引きしまった体軀や玉眼という新技法を取り入れた点に新しい動向が見られるが,なお藤原風を脱しきれてはいない。それから10年後の願成就院像において,はっきりとその後の運慶様に見られる特色を示す。その3年後の浄楽寺像とともに,これらの像は鎌倉幕府の首脳である北条時政・和田義盛の発願になることは特筆されねばならない。1197年(建久8)には京都東寺講堂の像の修理を文覚を願主として行い,1203年(建仁3)には文覚の中興した神護寺の像を制作する。同年東大寺再興の最後を飾る南大門の金剛力士像の場合は,20人の仏師のみごとな分業体制によって,69日間で8mを超す巨像の制作に成功する。同年11月の東大寺総供養で運慶は仏師として最高位の法印に昇る。その後興福寺北円堂の造営を終えたあとは主として鎌倉幕府関係の造仏に終始し,18年(建保6)北条義時発願の大倉新御堂像,19年(承久1)頼朝菩提のため政子が営んだ勝長寿院の五大尊などをつくっている。
運慶は幕府だけでなく,摂政近衛基通発願の普賢菩薩像(1202)をつくり,白河上皇が建立した法勝寺九重塔の復興造営(1213)にも参加している。晩年には自ら地蔵十輪院を建て,一門の子弟と共に多くの造仏をしたが,いま京都六波羅蜜寺に伝わる地蔵菩薩座像はその本尊といわれている。運慶には湛慶,康運,康弁,康勝,運賀,運助の6人の子息があったといわれ,多くのすぐれた子弟を育て,その後の慶派の地位を不動のものとした。その様式は,規範として,長く日本の彫刻に影響を与えた。
執筆者:佐藤 昭夫
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鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝(じょうちょう)5代目と称する慶派の康慶(こうけい)。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位(そうごうい)も法橋(ほっきょう)から法眼(ほうげん)、法印(ほういん)へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来(だいにちにょらい)像(1176)、静岡願成就院阿弥陀(あみだ)如来・不動・毘沙門天(びしゃもんてん)像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山(こうやさん)不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒(みろく)・無著(むじゃく)・世親(せしん)像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応(じょうおう)2年12月11日と伝える。
運慶の作風は、康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌(ふうぼう)、堂々たる体躯(たいく)、深く複雑な衣文(えもん)線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平(てんぴょう)以来の彫刻の古典をその作品に総合している。これが当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ諸豪族の注文も多かった。彼の子の湛慶(たんけい)、康勝、康弁、および康慶の弟子快慶などが、彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としている。
[佐藤昭夫]
『水野敬三郎著『運慶と鎌倉彫刻』(1972・小学館)』▽『林文雄著『運慶』(1980・新日本出版社)』
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?~1223.12.11
鎌倉前期の仏師。康慶の子。奈良を本拠に天平彫刻や平安初期彫刻に学びながら,写実的で量感に富んだ新しい仏像様式を確立し,鎌倉彫刻の基礎を築いた。1180年(治承4)に平重衡の攻撃によって焼亡した東大寺・興福寺の復興造像をはじめ,東国武士や宮廷貴族関係の造像にたずさわるなど幅広く活躍。文覚(もんがく)に重用され,東寺講堂諸仏の修理や神護寺講堂の造像を行った。95年(建久6)の東大寺大仏殿供養で法眼(ほうげん),1203年(建仁3)の東大寺総供養に際し法印に叙された。晩年の12年(建暦2)頃に完成した興福寺北円堂の弥勒如来像と無著(むぢゃく)・世親(せしん)像は日本彫刻史上の傑作で,3体とも国宝。
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…この様式が奈良時代様式への復古なのか,また新しい中国宋代様式の影響なのか議論の分かれるところである。なによりもこの像が鎌倉彫刻を主導する康慶や運慶の様式に通ずる点が重視されよう。1176年(安元2)の奈良円成寺の大日如来像(運慶作)や1177年(治承1)の静岡瑞林寺の地蔵菩薩像(康慶作か)などが遺品として続く。…
※「運慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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