藤原冬緒(読み)ふじわらのふゆお

改訂新版 世界大百科事典 「藤原冬緒」の意味・わかりやすい解説

藤原冬緒 (ふじわらのふゆお)
生没年:807-890(大同2-寛平2)

平安前期の官人。藤原京家の出身で豊伴の子。母は大伴永主の娘。843年(承和10)勘解由判官となり,式部大丞,蔵人,春宮少進,右少弁などを経て,850年(嘉祥3)惟仁親王が立太子するに及んで春宮亮,次侍従となり,ついで右中弁となった。良官能吏名声が高かったらしい。866年(貞観8)新羅侵寇問題がおこると大宰大弐として対策を講じ,879年(元慶3)には民部卿として畿内での班田の実施と官田の設置を提言するなど,積極的な対策を示した。この間869年参議となり,中納言を経て882年正三位大納言となったが,時に75歳であった。887年(仁和3)に80歳で致仕した。実力で昇進した平安前期の典型的な官僚の一人で,通儒と称された。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原冬緒」の解説

藤原冬緒

没年寛平2.5.23(890.6.14)
生年大同2(807)
平安前期の公卿。豊彦(豊伴とも)と大伴永主の娘の子。大宰大弐,民部卿などを歴任,その有能ぶりは「吏幹」と称され,上奏した意見はことごとく採用されたという。貞観年間(859~877)新羅の来襲が問題化したとき,大宰府管内に烽燧(敵の来襲を知らせる通信設備)を設置して訓練することなどを提言,元慶3(879)年には,国家(中央)財政危機の打開策として畿内5カ国に4000町歩もの広大な官田の設定(元慶官田)を提案した。その収穫稲の保管用倉庫が必要となり,そのため平安京の平面構成が藤原京型から北闕型へ手直しされることとなった。露蜂房や槐子を服用し,80歳をすぎても元気で白髪一本なかったという。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原冬緒」の解説

藤原冬緒 ふじわらの-ふゆお

808-890 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
大同(だいどう)3年生まれ。京家藤原浜成の孫。貞観(じょうがん)11年(869)参議となり,大宰大弐,民部卿などを歴任。大納言,正三位にいたる。民政に通じた能吏で,財政対策として官田の設置(元慶(がんぎょう)官田)を提議した。寛平(かんぴょう)2年5月23日死去。83歳。

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