藤原田麻呂(読み)ふじわらのたまろ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原田麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原田麻呂 (ふじわらのたまろ)
生没年:722-783(養老6-延暦2)

奈良後期の官人。式家藤原宇合(うまかい)の第5子で,広嗣,良継の弟。母は小治田牛養(おはりだのうしかい)の娘。性格は恭謙で,人と物を競うことはなかったという。740年(天平12)に兄藤原広嗣の乱に連座して隠岐に流罪となり,2年後にゆるされて帰還したが,政治にかかわることなく,山中修行をしたという。761年(天平宝字5)従五位下となり,造保良宮使としてその造営に携わり,翌年には遣唐副使となったが,船の故障などにより渡唐しなかった。以後陸奥出羽按察使(あぜち),右中弁,外衛大将などを歴任。766年(天平神護2)に参議となった。光仁天皇即位後兵部卿となり,その大嘗会にあたって従三位に叙された。のち中務卿兼中衛大将となり,780年(宝亀11)には中納言,桓武天皇の即位にともない皇太子早良(さわら親王の皇太子傅となり,さらに正三位大納言兼近衛大将となり,翌年右大臣従二位となった。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原田麻呂」の解説

藤原田麻呂

没年延暦2.3.19(783.4.25)
生年:養老6(722)
奈良時代の貴族。藤原宇合と小治田牛養の娘の子。宇合の第5子。太満侶とも書く。天平12(740)年,兄藤原広嗣の乱に連座して隠岐(島根県)に配流,2年後に召還されてからは大和国蜷淵山(奈良県明日香村稲淵)に隠棲して仏道に専念したという。天平宝字5(761)年,従五位下。翌年には遣唐副使に任じられたが,船の故障で唐に渡らなかった。天平神護2(766)年参議。以後,中務卿,中衛大将,近衛大将などを歴て,天応2(782)年右大臣に昇った。右大臣従二位兼近衛大将皇太子傅で死去。物に競うことなしと評される温厚な人物であったらしい。

(増渕徹)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原田麻呂」の解説

藤原田麻呂 ふじわらの-たまろ

722-783 奈良時代の公卿(くぎょう)。
養老6年生まれ。式家藤原宇合(うまかい)の5男。母は小治田牛養(おはりだの-うしかい)の娘。兄藤原広嗣(ひろつぐ)の乱に連座し,天平(てんぴょう)12年(740)隠岐(おき)に配流。2年後ゆるされ,大和蜷淵(になふち)山で仏道を修行。天平神護(てんぴょうじんご)2年(766)参議。右大臣にすすんで近衛(このえ)大将,東宮傅(ふ)をかね,正二位にいたる。延暦(えんりゃく)2年3月19日死去。62歳。

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