改訂新版 世界大百科事典 「藤原広嗣の乱」の意味・わかりやすい解説
藤原広嗣の乱 (ふじわらのひろつぐのらん)
740年(天平12),九州地方でおきた内乱。唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。広嗣は軍を三つに分け(指揮官は広嗣,藤原綱手,多胡古麻呂),豊前国の登美,板櫃,京都(みやこ)の三鎮をめざした。広嗣の軍は,途中筑前国の遠珂(おか)郡家に前進基地をおき,筑前国内の兵を徴発しながら進むところを間諜に目撃されている。広嗣軍におくれて弟の綱手の軍も目的地に到達したが,多胡古麻呂軍は遂に他の2軍と合流しえなかったらしい。これに対して中央政府は全国的に動員をかけ,大野東人を大将軍に任命し,勅使を派遣した。関門海峡をわたった中央政府軍は三鎮攻略に成功し,軍営を板櫃鎮に進めた。広嗣側は大損害を被り,動揺した豊前国の郡司級豪族は次々と投降した。広嗣側はその後態勢を立て直して板櫃川の西岸に進出し,東岸に布陣した中央政府軍と対峙した。両軍注視のなか,広嗣が勅使佐伯常人との応酬で論破されたことをきっかけに,広嗣軍は総崩れとなった。広嗣は綱手とともに肥前国松浦郡の値嘉(ちか)島からさらに西方をめざして逃走したが,船が値嘉島に吹きもどされたところを捕らえられ,斬殺された。乱後の742-745年の間,大宰府は停止されて,軍事的色彩の強い鎮西府が置かれ,警戒体制がとり続けられた。この乱は,737年に藤原四卿が病没し,藤原氏の勢力が一挙に衰微したことに対する式家の嫡子としての広嗣のあせりと,勢力挽回の方法をめぐる藤原氏主流との対立から,他の藤原氏一族の援護がないまま広嗣が孤立的に暴発したものであったといえよう。乱勃発の知らせをうけた聖武天皇は東国に行幸し,以後約6年間にわたって都は恭仁(くに)京,難波京,紫香楽(しがらき)宮の間を移動し安定せず,これがまた政治不安,社会不安をつのらせた。
執筆者:栄原 永遠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報