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藤原広嗣の乱 ふじわらのひろつぐのらん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原広嗣の乱
ふじわらのひろつぐのらん

奈良時代に起った反乱事件。天平 12 (740) 年9月大宰少弐藤原広嗣が,左大臣橘諸兄の政権を構成する吉備真備 (きびのまきび) ,僧正玄 昉 (げんぼう) を除こうとして,1万に及ぶ兵を集めて九州で反乱を起した。朝廷では大野東人を将として1万 7000の兵で鎮圧にあたった。戦闘はほぼ2ヵ月に及んだが,広嗣は捕えられて処刑され,鎮圧された。この結果,広嗣の出た藤原式家は一時衰えて南家が台頭し,遷都が計画され玄 昉,真備が左遷された。

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百科事典マイペディアの解説

藤原広嗣の乱【ふじわらのひろつぐのらん】

740年北九州で起こった反乱。大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷され不満のあった藤原広嗣(宇合(うまかい)の子)は,管轄下の兵を動員,玄【ぼう】(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)2人を朝廷から除く名目で8月末,東上を開始した。急報で聖武天皇は大野東人(おおののあずまひと)を大将軍として兵を西下させた。両軍は北九州各地で激戦,敗れた広嗣は値嘉島(ちかのしま)(五島列島)からさらに西方へ脱出しようとして逮捕され,11月初め処刑された。この乱は聖武天皇の恭仁(くに)京紫香楽(しがらき)宮への転居の原因となり,またおりからの天然痘流行とあいまって国分寺東大寺造営の直接の契機となった。
→関連項目橘諸兄奈良時代藤原広嗣

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのひろつぐのらん【藤原広嗣の乱】

740年(天平12),九州地方でおきた内乱。唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。

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世界大百科事典内の藤原広嗣の乱の言及

【奈良時代】より

… 代わって樹立された新しい政権は知太政官事鈴鹿王(長屋王の弟),大納言橘諸兄(はじめ葛城王,母は橘三千代),中納言多治比広成らによって構成され,これに唐から帰国したばかりの玄昉(げんぼう)と下道真備(しもつみちのまきび)(のち吉備真備)が参画したが,その性格は反藤原氏的で,兵士・健児(こんでい)の停止,郡司の減員,国の併合などの行政整理を目的とするいくつかの新施策を実施した。これに対して,親族を讒乱したとして大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)(宇合の長子)が大宰府に拠って反乱を起こし,玄昉,真備の排除を要求した(藤原広嗣の乱)。反乱は大野東人を大将軍とする征討軍によってすぐ鎮圧されたが,乱の京内への波及を恐れた聖武天皇は,勃発とともに東国に退避し,鎮定後も平城宮に帰らず,諸兄と関係深い山背国相楽郡の恭仁京に遷都した。…

【藤原広嗣】より

…奈良前期の貴族。宇合(うまかい)の第1子で,藤原広嗣の乱の中心人物。738年(天平10)4月,大養徳守(やまとのかみ)に任じられたが,同年12月大宰少弐に遷された。…

※「藤原広嗣の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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