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藤原経宗 ふじわらの つねむね

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原経宗 ふじわらの-つねむね

大炊御門経宗(おおいみかど-つねむね)

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原経宗

没年:文治5.2.18(1189.3.6)
生年:元永2(1119)
平安末期の公卿。二条天皇の外戚。大炊御門と号した。大納言藤原経実の4男。母は藤原公実の娘従三位公子。右少将,中将,蔵人頭などを経て,久安5(1149)年参議,仁平2(1152)年従三位。姉懿子が後白河天皇に嫁して守仁親王(のちの二条天皇)を生んだため,その立太子によって春宮権大夫となり権大納言に上る。保元3(1158)年二条天皇の即位後は,天皇親政の中心となり藤原惟方と共に院近臣の信西(藤原通憲)と対立。後白河院政を廃して天皇親政をめざすが,平治の乱(1159)後に後白河上皇の怒りを買って解官,阿波国に配流される。のち許されて左大臣・従一位まで上る。公事をよく勤め,晩年は後白河法皇に近侍した。

(土谷恵)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのつねむね【藤原経宗】

1119‐89(元永2‐文治5)
平安後期の廷臣。藤原経実の四男。母は藤原公実の女公子。妹の懿子(いし)が二条天皇の生母であるため天皇の信任を得,平治の乱にさいし一時藤原信頼と組んだが欺いて天皇を脱出させる働きをした。天皇親政を目ざし専横のふるまいをしたと後白河上皇に忌まれ,1160年(永暦1)平清盛に捕らえられ阿波国に流罪になった。のち許され64年(長寛2)右大臣,さらに左大臣に進み,言仁親王(のちの安徳天皇)の皇太子傅となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原経宗
ふじわらのつねむね
(1119―1189)

平安時代末期の貴族。大納言藤原経実の子。経実・経宗以後のこの家流は清華家(せいがけ)の一つである大炊御門家(おおいみかどけ)となった。同母妹が後白河天皇との間に儲けた守仁親王(もりひとしんのう)が1158年(保元3)に即位(二条天皇)、その側近となる。1159年(平治1)の平治の乱では、平清盛とも手を結び、後白河院政を支える藤原信西(しんぜい)や藤原信頼ら院側近たちを相次いで打倒、天皇の立場を強化しようとしたが、院からの反発をうけ、1160年(永暦1)に阿波へ流罪。1164年(長寛2)に本位に復し、1166年(仁安1)には左大臣まで昇進する。二条天皇が崩じたのちは後白河院に接近し、貴族社会での立場を守った。1183年(寿永2)の平家都落ちの直後には、除目(じもく)を院殿上で行うよう主張して実現したり、大臣の地位にありながら院司となるなど、後白河院が貴族社会で主導権をとるために活躍した。没する直前まで左大臣にとどまり、貴族社会の長老として後白河院政を支えた。[松島周一]
『松島周一著「藤原経宗の生涯」(『愛知教育大学研究報告42』・1993)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の藤原経宗の言及

【大炊御門家】より

清華家の一つ。平安時代末の関白藤原師実の第3子経実を始祖とし,その子藤原経宗の邸宅大炊御門富小路西邸にちなんで大炊御門を家号とした。経実は大納言で没したが,その女懿子は後白河天皇の後宮に入って二条天皇の生母となり,経実は天皇の外祖父として勢力をふるい,没したのち太政大臣を贈られた。…

※「藤原経宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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