藤原経宗
ふじわらのつねむね
(1119―1189)
平安時代末期の貴族。大納言藤原経実の子。経実・経宗以後のこの家流は清華家(せいがけ)の一つである大炊御門家(おおいみかどけ)となった。同母妹が後白河天皇との間に儲けた守仁親王(もりひとしんのう)が1158年(保元3)に即位(二条天皇)、その側近となる。1159年(平治1)の平治の乱では、平清盛とも手を結び、後白河院政を支える藤原信西(しんぜい)や藤原信頼ら院側近たちを相次いで打倒、天皇の立場を強化しようとしたが、院からの反発をうけ、1160年(永暦1)に阿波へ流罪。1164年(長寛2)に本位に復し、1166年(仁安1)には左大臣まで昇進する。二条天皇が崩じたのちは後白河院に接近し、貴族社会での立場を守った。1183年(寿永2)の平家都落ちの直後には、除目(じもく)を院殿上で行うよう主張して実現したり、大臣の地位にありながら院司となるなど、後白河院が貴族社会で主導権をとるために活躍した。没する直前まで左大臣にとどまり、貴族社会の長老として後白河院政を支えた。
[松島周一]
『松島周一著「藤原経宗の生涯」(『愛知教育大学研究報告42』・1993)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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藤原経宗 (ふじわらのつねむね)
生没年:1119-89(元永2-文治5)
平安後期の廷臣。藤原経実の四男。母は藤原公実の女公子。妹の懿子(いし)が二条天皇の生母あるため天皇の信任を得,平治の乱にさいし一時藤原信頼と組んだが欺いて天皇を脱出させる働きをした。天皇親政を目ざし専横のふるまいをしたと後白河上皇に忌まれ,1160年(永暦1)平清盛に捕らえられ阿波国に流罪になった。のち許され64年(長寛2)右大臣,さらに左大臣に進み,言仁親王(のちの安徳天皇)の皇太子傅となった。動乱の中で長く枢要の地位にあり,朝儀典礼に通じたため,世人に敬重された。阿波大臣,大炊御門左大臣と呼ばれた。
執筆者:平林 盛得
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の藤原経宗の言及
【大炊御門家】より
…[清華家]の一つ。平安時代末の関白藤原師実の第3子経実を始祖とし,その子[藤原経宗]の邸宅大炊御門富小路西邸にちなんで大炊御門を家号とした。経実は大納言で没したが,その女懿子は後白河天皇の後宮に入って二条天皇の生母となり,経実は天皇の外祖父として勢力をふるい,没したのち太政大臣を贈られた。…
※「藤原経宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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