日本歴史地名大系 「藤野川村」の解説 藤野川村ふじのかわむら 大分県:杵築市藤野川村[現在地名]杵築市大内(おおうち)江頭(えがしら)川上流域にあり、南は大内山(おちやま)村と灘手(なだて)村。谷間に細長く広がり、住居は北方の傾斜地に多い。陸路の参勤交代路が村内を通る。小倉藩元和人畜改帳に藤ノ川村とみえ、高二五一石余、家数二二・人数二九(うち百姓六・名子二・山守一)、牛五。正保郷帳では安岐(あき)郷に属し、田方一五三石余・畑方二一石余。元禄郷帳では高一七五石余。明治以降藤川(ふじかわ)村とよばれるようになったという。朝霧(あさぎり)社は牛馬守護神として崇敬されている。天正八年(一五八〇)大友宗麟の命により、安岐郷実際(じつさい)寺(現安岐町)に籠った一揆を鎮圧した清田阿波守は、帰路川中に落ちて怪我をし、当村で絶命し、里人は手厚く葬ったが、朝霧が立込めることから朝霧社と称するようになったという。 藤野川村とうのがわむら 和歌山県:日高郡川辺町藤野川村[現在地名]川辺町藤野川三百瀬(みよせ)の東南にあたり、袋のような谷間の山村で、東方の不動(ふどう)峠を越えれば老星(おいぼし)村(現中津村)に至る。「続風土記」は「土人は登能賀波といふ、或は殿川と書す、村の奥星・佐井に越ゆる峯を殿越といふ、古此谷二貴人の落人となりて来り住みしを、里民尊ひて殿を以てこれを呼ひしより殿川・殿越などの称起りしならん」と記す。慶長検地高目録では伊藤川(いとご)村の地と併せ「藤川伊藤川村」と記される。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑九町六反余で高七八石余、家数八で内訳は本役五・無役二・庄屋一、人数三三、牛三、鉄砲二、御蔵一。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by