大内山村(読み)おおうちやまむら

日本歴史地名大系 「大内山村」の解説

大内山村
おおうちやまむら

[現在地名]大内山村

近世の大内山村は現大内山村域を占め、「五鈴遺響」によれば大内山谷と俗称され、北東を流れる大内山川に沿ってこめたに中野なかの川口かわぐちうめたに小津おづ大津おおづ井良野いらの間弓まゆみ小屋こやこま駒野こまのなどの集落が散在する。間弓に鎌倉時代の祭祀跡こうべみや遺跡がある。中野に大内山城(中野城)跡があり、「勢州軍記」に「大内山但馬守居ス」とある。中野の吸泉きゆうせん寺は大内山但馬守の菩提寺で、平家盛寄進と伝える永正一〇年(一五一三)銘の雲板(県指定文化財)がある。一説に大内山氏は本姓平氏で、雲板在銘の平家盛を祖とするという。

大内山村
おおうちやまむら

面積:六五・〇一平方キロ

度会郡の南西隅にあり、北は多気たき宮川みやがわ村、東は紀勢きせい町、南は北牟婁きたむろ紀伊長島きいながしま町に接する。山間清流の景勝地で、史跡名勝に中将倉ちゆうじようぐら犬戻いぬもどり峡・こうべみやがある。大台おおだい山系下、大内山郷・大内山谷の名で知られ、村名の由来となる。村域のほとんどが山地で、周囲の標高五〇〇―一〇〇〇メートルの山々は傾斜を急にして耕地を狭め、日照時間は短い。村の西境に源をもつ大内山川はヶ峰(六三六・九メートル)の麓を北東に流れて川沿いに集落がある。大内山川は紀勢町・大宮おおみや町を経て宮川に至るが、中世この川沿いの山際に開かれた熊野街道が明治二〇年(一八八七)大改修され、昭和二年(一九二七)国鉄紀勢線開通、同四〇年国道四二号開設と急速に交通が発達し、近代化を促した。

大内山村
おちやまむら

[現在地名]杵築市大内おおうち

杵築城下北浜きたはま口番所下から潮止の堤防を通り、高山たかやま川の渡舟の北方にある。村の東方は台地上にあり、西方は台地と堆積地の平野がある。小倉藩元和人畜改帳では高二五九石余、家数五三・人数六九(うち百姓一一・名子九・大工一)、牛一七・馬一。正保郷帳では安岐あき郷に属し、田方一〇〇石余・畑方七五石。元禄郷帳では高一七五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報