朝日日本歴史人物事典 「蘆名盛重」の解説
蘆名盛重
生年:天正3(1575)
戦国末・江戸初期の武将。常陸太田城主佐竹義重の次男,幼名喝食丸。初名義広。天正7(1579)年白川義親の養子になった。蘆名氏は,盛氏のあと二階堂盛隆が蘆名家を嗣いだが横死し,その嗣子亀若丸は3歳で痘を患って死去。そこで宿老らの衆議によって義広が15年盛隆の娘と結婚して蘆名家を継ぎ,これにより同家の佐竹氏への従属は強まった。義広は豊臣秀吉に使者を送るなどしていたが,秀吉は17年2月ごろ蘆名,上杉両氏の和睦を下知し奥羽の地も自らの秩序に服させようとした。ところが蘆名家は義広に伴い会津入りした佐竹衆と蘆名譜代との争いにより家中は不安な情勢となる。一方,佐竹・蘆名連合勢力と伊達氏との間に緊張が高まっていた。17年6月磐梯山麓摺上原の決戦で大敗し,義広は白河を経て常陸の実家に走り,蘆名家は滅亡した。翌18年秀吉から常陸国江戸崎領4万5000石を与えられ,名も盛重と改めた。その後関ケ原の戦不参により徳川家康から慶長7(1602)年所領を没収され,兄佐竹義宣の家臣となって秋田領角館1万6000石を領した。墓は秋田県角館町の天寧寺。<参考文献>『会津若松史』1巻
(伊藤清郎)
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