日本歴史地名大系 「西神代村」の解説 西神代村にしこうじろむら 長崎県:南高来郡国見町西神代村[現在地名]国見町神代 向町(むかいまち)・小路(くうじ)・下古賀(しもこが)・片田(かただ)など神代郷の西部に位置し、北部は海に臨み、みのつる川などが流れる。川東(かわひがし)・川西などの集落からなる。島原街道が通り、一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)。東神代村とともに神代郷に属し、肥前佐賀藩神代鍋島領で、鍋島氏の陣屋が置かれた。正保国絵図に「西高代村」とみえ、寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)では西神代村とする。正保国絵図および天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では西神代村七〇二石余と別に古賀村一五四石余・井尻(いじり)村(正保国絵図では伊尻村)一一三石余とあるが、古賀村・井尻村は枝郷であろう。文化九年(一八一二)当時は高七〇二石余で、家数八〇のうち本村一一二・町分一一五・古(ふる)町分二〇(「神代鍋島家日記」長崎図書館蔵)。天保郷帳でも三ヵ村が独立して記載され、旧高旧領取調帳では西村八六三石余とある。しかし神代領内では西神代村はより多くの小村で構成される村として把握され、安永年間(一七七二―八一)に井尻村・古賀村のほか北之崎(きたのさき)村・油手(あぶらで)村・五品(ごひん)村・片田原(かただばる)村・大乗(だいじよう)村・東小路村・西小路村の計九ヵ村がみえ、のち平馬(ひらま)村・上古賀村が分立したとされる(神代鍋島家日記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by