井尻村(読み)いのしりむら

日本歴史地名大系 「井尻村」の解説

井尻村
いのしりむら

[現在地名]土佐市宇佐うさ町井尻

福島ふくしま村の対岸、横浪よこなみ半島の東端にあって、うらうち湾口を扼する漁村(浦分)。宇佐郷の一村。近世の郷帳類には「井ノ尻」とある。西は浦ノ内村(現須崎市)、南は山を越えてりゆう村。福島村との間に竜ノ渡がある。

応仁二年(一四六八)一条教房はなか(現中村市)に下向する際、泉州堺から蓮池はすいけ城主大平氏所有の山下船に乗船した。「大乗院寺社雑事記」同年閏一〇月六日条に、「九月廿五日申尅乗船、土佐之太平知行之山下船云々、大船也、同廿六日、土佐之かんのうらニ著御、当所阿ミタ院ニ御休息、同船ニテ土佐之井ノ尻マテ可御下向云々」とあり、一一月二三日条により一〇月一日甲浦かんのうら(現安芸郡東洋町)を船出し、翌二日井尻に着いたことが知られる。井尻を母港として堺に通っていた大平氏の持船は、甲浦―井尻間をわずか一日で航海している。大船であるだけでなく、水主の熟達した操船術を証する。大平氏にとって、外港井尻と水主集団の存在は大きかったようである。天然の良港井尻湊について「土佐州郡志」は「有港西向其濶一町許、可容船六拾艘」、「南路志」は「長百廿間横六十間深二丈三尺」と記し、「西浦廻見日記」は「湊もよし、惣じて宇佐の入口あしきにこまりたれど入てハよし、尤まぜ風には舟あげねばもめあふ所也とぞ」と伝える。


井尻村
いじりむら

[現在地名]温泉津町井田いだ大字井田

津淵つぶち村の南西、江川支流の井尻川流域に位置する。

〔中世〕

大家おおえ西にし郷に含まれた。正平六年(一三五一)八月一九日の左中将某安堵状写(閥閲録)に「大家庄内井尻村」とみえ、井尻八郎太郎に当村地頭職を安堵している。井尻氏は元弘三年(一三三三)一〇月二七日の御神本兼家着到状(同書)に井尻御神本九郎太郎藤原兼家と名乗っており、御神本(藤原)氏一族の福屋氏庶流ではないかと推測される。なお同年九月一九日井尻九郎太郎(兼家)が大家庄西郷地頭職を安堵されているが(「石見国目代奉書」同書)、これは大家庄西郷のうちの井尻村地頭職であったと思われる。井尻兼家・同八郎太郎を経て、永和四年(一三七八)には井尻千代松に井尻村一方地頭職が安堵されている(同年一二月一三日「荒川道恵安堵状」同書など)


井尻村
いじりむら

[現在地名]御嵩町井じり

御嵩村の東、可児川北岸にあり、切木きりき川・たに川が可児川に合流する。南東は中切なかぎり村。南西から北東の西洞さいと村へと中山道が通り、通称追分おいわけで中切村へとなか街道が分岐する。上之郷かみのごう(上ノ郷)一六ヵ村のうちの本郷にあたる。元禄郷帳に井尻村とみえ、高四四〇石余、尾張藩領。「濃州徇行記」では田一九町九反余・畑三町八反余、百姓控山五町余。ほら組・西にし組・ひがし組の三組からなる。家数五四・人数二二五、馬四。紙漉三軒があり、半紙ばかりを漉出す。そのほか生柿・栗・小藤・樫割木などを産する。


井尻村
いじりむら

[現在地名]亀山市井尻町

亀山城下ひがし町の東南部に接する。村の北西部は亀山台地に続く緩い傾斜地で、北は和田わだ村。鎌倉時代にはすでに後鳥羽天皇の後院領となっており、「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に「後院御庄内(中略)井後村」の名がみえる。近世以前の井尻村を「五鈴遺響」では「鈴鹿川ノ下流ニシテ或井後ニ作ル、堰後ノ義ニシテ名ク」と記している。鈴鹿川沿いの村であったため、近世に入っても取水用の堰や防堤に対する留意が村の生活と切離せない。「亀山御領分雑記」は「大川堤長四百七拾間、但大筒口ヨリ東川原和田村堤境迄、井尻村和田村両郷田地用水大筒四ケ所、是ハ関川筋堤ニ伏セ申候、筒口西坪井加嶋□□右水筒損申候得ハ、両村ヨリ書付以御願申上候」と記し、大川北側につけた用水路についても「新溝長七百三拾弐間、但シ筒口ヨリ阿野田村分加嶋迄之内、修覆人足ハ当村ヨリ出シ申候」というが、それは同時に河川用水路に対して村が課せられた多大の負担を意味する。


井尻村
いじりむら

[現在地名]南区井尻一―五丁目・折立町おりたてまち高木たかぎ二―三丁目

五十川ごじつかわ村の南、那珂なか川右岸にある。北東は諸岡もろおか村、南は須玖すぐ(現春日市)。福岡往還が通っていた。戦国時代末期のものとみられる年不詳の一二月二五日付筑紫宣門書状(田村文書/筥崎宮史料)によると、筥崎宮大宮司が「井尻村」の地下人を少々召し移すことを承認している。永禄(一五五八―七〇)後半と推定される四月八日付の杉原盛重の書状(三吉鼓文書/広島県史 古代中世資料編四)には、大友氏と合戦中の毛利軍が井尻村に至った時、大友氏に味方する地下人らが敵対したことが述べられている。小早川時代の指出前之帳では井尻村の田一六町八反余(分米一八四石余)・畠三町七反余(分大豆三一石余)


井尻村
いじりむら

[現在地名]高槻市井尻一―二丁目・梶原かじはら一丁目・同三丁目・五領ごりよう町・上牧かんまき町五丁目・道鵜どうう町一丁目・同三―六丁目

上牧村の南西にあり、檜尾ひお川左岸、淀川右岸に位置する。地名は北部丘陵に発し、淀川氾濫原と旧淀川の残流をつないで走る井路の終末端「尻」に位置するため生じたという(大阪府全志)。当地は上牧と並んで古代いわゆる近都牧の地であったが(→上牧村、中世にもなお牧が残っていたと考えられ、応永四年(一三九七)一〇月八日には、在地領主の成重・光全両名がしも村惣中にあって、字高垣の「井尻牧畠本役」二反分の段銭を納めることを約している(「成重・光全連署打渡状」霊松寺文書)


井尻村
いじりむら

[現在地名]瑞穂町字井尻

福知山―京街道が北流してきた井尻川を越える辺り、井尻の谷の出口(北端)に位置する。山に囲まれ、集落は街道より南の川沿いにある。南は八田はつた村、西は坂井さかい村・東又ひがしまた村、北は井脇いわき村。

旧高旧領取調帳は六二石余を篠山藩領分、三七二石余を旗本柴田七九郎知行とするが、これは幕末―明治初年の一時期のみで、ほぼ江戸時代を通じて六二石余が幕府領、三七九石余が柴田氏知行。


井尻村
いじりむら

[現在地名]木更津市井尻

牛袋うしぶくろ村の東に位置する。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳に村名がみえ、高三六二石余、田一〇町二反余・畑屋敷一一町四反余、ただし有高は二〇一石余。元禄郷帳では高三六三石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によると家数七八、旗本豊島・杉浦の二家領および与力二人の給知。文化一二年(一八一五)の捉飼場村々書上帳では旗本杉浦・林・豊島・稲垣・岩間の五家領と与力給知。


井尻村
いじりむら

[現在地名]土佐町井尻

鎌滝かまたき山西南の山腹にあって、吉野川左岸域にあたる。長岡郡本山もとやま郷に属し、「土佐州郡志」では大川内おおかわうち村内の一小村とされている。天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳には「猪尻名」とみえ、検地面積八反余、うち下田三反余・下畠一反余・下屋敷三反余。屋敷六、うち居屋敷五。名本分四反余、公事分三反余。


井尻村
いじりむら

[現在地名]那珂川町別所べつしよ

別所村の南にある同村枝郷。村名の由来は、院の使いが来た寺という院使寺が転訛したという(続風土記)元禄国絵図に村名がみえる。石高書上帳案では郡帳高二一七石余。


井尻村
いじりむら

[現在地名]国見町神代こうじろ 川東かわひがし

西神代村の枝郷。寛文四年(一六六四)の鍋島光茂領知目録(寛文朱印留)に井尻村とみえ、天明七年(一七八七)の佐賀領村々目録では高一一三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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