神代城跡(読み)こうじろじようあと

日本歴史地名大系 「神代城跡」の解説

神代城跡
こうじろじようあと

[現在地名]国見町神代 小路など

有明海に突き出した中世の海城の跡。史料上は鶴亀つるかめ城とも称される。武内宿禰子孫という伝承をもつ筑後の神代氏が文治元年(一一八五)神代村に移り、神代良忠のとき元寇で軍功があり、その孫の良基が足利尊氏方として菊池氏と交戦したと伝える。あるいは南北朝期には当城に神代貴益が居城していたともいわれ、多比良氏・宇木氏・西郷氏らとともに南朝方として活躍したともいう。同じ一族であるか、別系統の神代氏であるか明らかではない。観応三年(一三五二)三月五日の安富泰治軍忠状(深江文書)に「神代」とみえ、足利直冬が派遣した小俣氏連の軍勢が当地を通過している。応安六年(一三七三)九州探題の今川了俊高来たかく郡方面に派遣した子息満範の率いる軍勢が「神代大隈」に陣を構え、深堀時広は七月七日より宿直警固を行っていた(同年九月日「深堀時広軍忠状」深堀文書)。当城の出城とされる大坪おおつぼ城の跡地には一四世紀代の阿蘇凝灰岩製の大型宝篋印塔があり、菊池氏の勢力の浸透が推定されている。

天正五年(一五七七)一二月龍造寺隆信の軍勢が有明海を渡って神代に上陸した際、神代を領知していた神代貴茂はただちに降伏し、龍造寺氏に付いて奔走したとされる(北肥戦誌)。同八年の肥後豊前への同氏の進出には神代氏も参加したという。龍造寺氏を阻止するため島津氏が島原半島出兵フロイス「日本史」によれば、龍造寺氏に呼応して島原城主らが有馬晴信に反逆するまでは三会みえ(現島原市)多比良たいら・神代などの諸城は有馬領であり、一五八四年の日本年報(イエズス会日本年報)に島原の城よりさらに進んでCogiroの城があると報告されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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