西高木家陣屋(読み)にしたかぎけじんや

日本の城がわかる事典 「西高木家陣屋」の解説

にしたかぎけじんや【西高木家陣屋】

岐阜県大垣市(旧養老郡上石津町)にあった平城(ひらじろ)。同県指定史跡。江戸時代の旗本・西高木家の居館(旗本屋敷)で、牧田川と加龍谷川に囲まれた高台にあった。戦国時代末期、美濃国石津郡を所領としていた高木貞利は斎藤道三、織田信長、織田信雄に従った。信雄は羽柴秀吉豊臣秀吉)に敵対したため小牧長久手の戦い後、秀吉により改易された。このとき、信雄の家臣だった貞利は甲斐国で蟄居させられた。貞利の所領には関一政が入り、天正年間(1573~93年)あるいは慶長年間(1593~1615年)に多羅城を築き、関一政は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに東軍の武将として参戦し、翌年の1601年(慶長6)、その戦功から伊勢国亀山(現三重県亀山市)に移封となった。そのあとの領主として復帰したのが高木貞利で、貞利は旗本として徳川家に仕えた。その際、高木家は高木貞利の西高木家2300石、高木貞友の東高木家1000石、高木貞俊の北高木家1000石の3家に分かれた。旗本高木家は西高木家、東高木家、北高木家の3家の総称で、江戸時代には交代寄合美濃衆とも通称され、大名格の旗本として、3家が隔年交代で参勤交代を行った。なお、この3家は正式にはすべて高木家だが、便宜上、西高木家、東高木家、北高木家とよんで区別している。この3家の高木家のうちで、最も大きいのが西高木家であった。西高木家陣屋は、文字どおり西高木家が居館としていたもので、高木貞利が1601年(慶長6)に築いた。その際、関一政の築いた多羅城も有事の際の詰城としてその一部が存続したといわれる。また、東・北高木家もそれぞれ陣屋を設け、3家の陣屋は1868年(明治1)まで存続した。西高木家陣屋の建物は1832年(天保3)に焼失したが、1852年(嘉永5)に表門が、1896年(明治29)に屋敷が再建された。石垣築城当時のもので、埋門石積みは1815年(文化12)に建設されたものである。また、敷地内には1993年(平成5)開設の大垣市上石津資料館(旧上石津町郷土資料館)がある。JR東海道本線大垣駅または関ヶ原駅からバス、宮下車後すぐ。◇多良(多羅)城、高木陣屋ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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