見内村(読み)やりみないむら

日本歴史地名大系 「見内村」の解説

見内村
やりみないむら

[現在地名]中仙町鑓見内

たま川東岸に沿った沖積平野にあり、北は長野ながの村、東は大蔵おおくら村・黒土くろつち村・沖野郷おきのごう村、南は四ッ屋よつや村(現大曲おおまがり市)に接する。

天正一八年(一五九〇)の出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳(戸沢文書)に「やりミ内郷小倉村」として田地一千五四〇石、畑・屋敷高六石弱がみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に八四二石と記載される。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)では家数一五軒、当高は一千一三〇石余、支郷に前田まいた村一一軒、逢野々あいのの村六軒、石持いしもち村一〇軒、野中のなか村一〇軒、豊口とよくち村二軒、界田さかいた村二軒、幕林まくはやし村三軒、しま村二軒、小島田こじまた村三軒、水上みずかみ村五軒、下大倉しもおおくら村四軒、板屋いたや村六軒、鍛冶屋敷かじやしき村二軒、佐野さの村四軒、川戸嘉かわとが村一一軒、星野宮ほしのみや村五軒の大村である。


見内村
たるみないむら

[現在地名]平鹿町樽見内

西は東里とうさと(現雄物川町)、北は砂子田すなごだ村、東は浅舞あさまい村、南は木下きした(現十文字町)に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に村名がある。「雪の出羽路」によればアイヌ語の「おた」は砂、「る」は道路、「なゐ」は沢で、おたるなゐは正しくは「おたるみんなゐ」といい、「お」が省かれたのであろうとある。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に、枝郷としてなか在家ざいけ村・水里境みずさとさかい村・柄内からうち村・荒屋あらや村・小豆田あずきだ村・平清水ひらしみず村・古館ふるだて村があり、「雪の出羽路」に、水里境村の薬師やくし村への改称、荒屋村の消滅高畑たかはた村の新出が記される。


見内村
みうちむら

[現在地名]氷見市見内

上庄かみしよう川の上流域、氷見町南西に位置する。東と南は触坂ふれざか村、西は葛葉くずば村・岩瀬いわがせ村、北は小久米おぐめ村。正保郷帳では御内村とみえ高二〇七石余、田方一三町四反・畑方四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二二五石・免五ツ五歩、小物成は山役七九匁・蝋役八匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば高一九四石余、うち享保一七年(一七三二)よりの手上高二石、延享元年(一七四四)よりの手上高五斗、貞享元年(一六八四)よりの検地引高五五石。


見内村
みうちむら

[現在地名]篠山市見内

波賀野はがの村の北に位置し、武庫むこ川支流の波賀野川が流れる。古くは神内、文明一四年(一四八二)から御内、慶安四年(一六五一)から見内と改めたと伝える(篠山封疆志)波賀野村から分立したという。元和年間(一六一五―二四)御内村として高七八石余で百姓八軒であったがすべて逃散したので、寛永五年(一六二八)に郷代官の波賀野村酒井藤右衛門に請所とさせ、慶安四年ようやく元のごとく一村になったという(丹波志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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