氷見町(読み)ひみまち

日本歴史地名大系 「氷見町」の解説

氷見町
ひみまち

富山湾の北西にあって、北東に石動山せきどうさん丘陵、西は宝達ほうだつ丘陵、西から南東に延びる二上ふたがみ丘陵の三つの丘陵に囲まれ、この中央部に流れ込む仏生寺ぶつしようじ(湊川)上庄かみしよう川の河口に発達した。氷見町の発生は不明だが、観応三年(一三五二)九月日の得田素章代章房軍忠状(遺編類纂所収得田文書)に「馳集氷見湊、可寄来当陣之由風聞之間、同夜中仁押寄彼湊、致散々合戦、北市在家懸火間、御敵等引退南宿、引大橋中間令没落之間、打返当陣畢」とある。「当陣」とは足利尊氏方の武将能登守護吉見氏頼をさし、「御敵」とは足利直義直属の武将元越中守護桃井直常である。この時期、桃井氏と吉見氏との絶間ない合戦が繰広げられていた。氷見の中央部に流れ込むみなと川に大橋が架かり、その北側に民家が集落し、北市きたいちとよばれていた。南側は南宿みなみしゆくと称される集落を示唆している。江戸時代の基本的な町の形態はこの時期すでに出来上っていたともいわれるが、不詳。南北朝期の戦火によってすべて焼土と化したともいわれる。

後世俗に氷見庄内一〇〇ヵ村といわれる村々の年貢米をはじめとする物資の集散地として、また台網(定置網)を中心とした漁業基地として発展するのは江戸時代である。慶長五年(一六〇〇)一〇月二五日前田利長は氷見町に対して、地子米定書(宮永家文書)を下している。これによれば高四八三石八斗、ほかに氷見町外畑そとばたと称する土地があり、年貢米二六五石と定められた。この頃の氷見町は南北朝時代の町の姿を投影するように、二分した町政が行われていた。元和元年(一六一五)の増免申付状(同文書)の宛名に「氷見両町肝煎中」とある。仏生寺川下流は湊川と名を変えるが、この湊川を挟んで南側をみなみ町、北側を北町とよび、両町にそれぞれ肝煎役を置いて町を統括させた。氷見町は今石動いまいするぎ町奉行所(現小矢部市)の支配を受けた。今石動町奉行所は遠く離れていたためか、駐在士分は御蔵番足軽のみで、町政は町人たちが執行した。「憲令要略」によれば承応三年(一六五四)町肝煎役として南町に笹屋兵四郎、北町には七尾屋次右衛門を命じている。万治元年(一六五八)氷見町に初めて加納屋助右衛門・鵜飼屋五郎兵衛・薬屋勘右衛門・堀江屋七郎左衛門・十二町屋善左衛門の五名が町年寄役に命ぜられた。各町内には組合頭四人が定められ、一ヵ月二人ずつ当番を決め、御用の時には町会所へ詰めた。この上役には算用聞・町肝煎・町年寄の町三役があった。元禄年中(一六八八―一七〇四)の戸数は一千一二五で(憲令要略)、南町は南上みなみかみ町・南中町・南下町の三町、北町は本川ほんがわ町・湊町・なか町・北新きたしん町の四町で、この町々を本町と称し、のち発生する町を散町と称して区別をした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報