谷山城跡(読み)たにやまじようあと

日本歴史地名大系 「谷山城跡」の解説

谷山城跡
たにやまじようあと

[現在地名]鹿児島市上福元町・下福元町

木之下きのした川中流左岸、標高五七メートルを最高地点とする西から東へ延びるシラス台地の先端とその周囲を主とした山城。谷山本たにやまほん城、単に本城のほか、千々輪ちぢわ城・愛宕あたご城ともいう。「三国名勝図会」は谷山郡司谷山氏の歴代の居城とし、「薩隅日三州他家古城主来由記」は初代城主を谷山忠光とするが、当城を築いたことは確認できない。南北朝初期に忠光の曾孫隆信が薩州南方みなみかたなどで合戦しており、この頃に谷山氏の本城として当城が築かれたものと思われる。

暦応四年(一三四一)九月一二日の莫禰円也軍忠状(旧記雑録)に谷山城とみえ、北朝方の莫禰円也が当城や伊集院いじゆういん(現伊集院町)などで合戦をしている。翌五年五月には征西将軍宮懐良親王が谷山氏を頼ってきたため(島津国史)、隆信は当城の北西一キロ余の所に御所ごしよわら城を築いた。そこで島津貞久勢が同年八月谷山郡および当城に押寄せ合戦となった。この谷山城攻めの際、権執印俊正は貞久方として浜手に駆けつけている(康永二年九月日「権執印俊正軍忠状」旧記雑録など)。貞和二年(一三四六)当城の所々で合戦があり(同年一一月二一日「足利直義御教書案」島津家文書)、翌三年一月六日隆信の居城である当城に南朝方数百人が入ったため、近所に城を築くのではないかとの情報を得た島津貞久は手勢が少ないため、比志島氏らに駆けつけるよう命じている(正月七日「島津貞久書状」・同年正月二〇日「島津貞久書下」比志島文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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