豊岡城跡(読み)とよおかじようあと

日本歴史地名大系 「豊岡城跡」の解説

豊岡城跡
とよおかじようあと

[現在地名]豊岡市京町

豊岡盆地中央部西端、円山まるやま川西岸に接する神武じんむ(四九メートル)にあり、山容から山をかめ山、城を亀城ともよんだ。神武山名は明治五年(一八七二)神武天皇遥拝所設置による。なお豊岡城は近世初期までの城崎きのさき(木崎城)の城地を継承したものとみられる。

〔城崎城から豊岡城へ〕

「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)九月二日条に但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して但馬へ撤退したとき、再進攻を主張する被官らが政豊の子俊豊を立てようとして、政豊と被官田公肥後守の籠る正法しようぼう(のちに廃寺)を包囲したが、「田公息新左衛門構城於木崎居」とあり、木崎は正法寺から一八町の所にあるとしている(実際は約一・八町)。同日条には「木崎云ハ永泰院領、乱来田公押領也」ともあるが、伝承では城崎城は永享年間(一四二九―四一)山名持豊が築き、被官垣屋氏に守らせたとする。天正一〇年(一五八二)城下町豊岡の形成にあたり北側から町屋しも町・中町と設定し、城地に接する次の町屋は上町となる所が宵田よいだ町となるなど、現出石いずし町宵田、現日高ひだか町宵田とともに垣屋氏との強い関連をうかがわせている。永禄一二年(一五六九)と推定される八月一九日付の朝山日乗書状案(益田家什書)に、織田勢による但馬攻めのとき「子盗(此隅)(現出石町宮内)を含め「十日之内十八落去候」とあるなかの垣屋城は当城であるとみられる。

天正八年羽柴勢の但馬占領によって麾下宮部善祥房継潤が二万石で入城(「京極家半知之記」但馬志料)、同一一年には「各居城之次第(中略)木崎木下助兵衛尉」とあり(「秀吉事記」柴田退治)、同一二年には尾藤久右衛門知定、同一三年には明石与四郎(左近則実)に城崎二万二千石が預けられ(武功夜話)、文禄四年(一五九五)には福原右馬助直高が入城(以上はいずれも代官とみられる)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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