日本歴史地名大系 「豊岡城跡」の解説
豊岡城跡
とよおかじようあと
〔城崎城から豊岡城へ〕
「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)九月二日条に但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して但馬へ撤退したとき、再進攻を主張する被官らが政豊の子俊豊を立てようとして、政豊と被官田公肥後守の籠る
天正八年羽柴勢の但馬占領によって麾下宮部善祥房継潤が二万石で入城(「京極家半知之記」但馬志料)、同一一年には「各居城之次第(中略)木崎木下助兵衛尉」とあり(「秀吉事記」柴田退治)、同一二年には尾藤久右衛門知定、同一三年には明石与四郎(左近則実)に城崎二万二千石が預けられ(武功夜話)、文禄四年(一五九五)には福原右馬助直高が入城(以上はいずれも代官とみられる)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報