日本歴史地名大系 「豊岡町」の解説 豊岡町とよおかちよう 兵庫県:豊岡市豊岡町[現在地名]豊岡市小田井町(おだいちよう)・加広町(かひろちよう)・幸町(さいわいちよう)・寿町(ことぶきちよう)・泉町(いずみちよう)・元町(もとまち)・京町(きようまち)・千代田町(ちよだちよう)・中央町(ちゆうおうまち)・山王町(さんのうちよう)・城南町(じようなんちよう)近世初期に城崎(きのさき)郡に成立した豊岡城の城下町。円山(まるやま)川西岸沿い、豊岡盆地の中心に位置し、郭内を挟んで北と南に城下町が形成された。北端に小田井社(小田井大明神、現小田井県神社)があり、南端は室町期に守護山名氏の領国在所が置かれたと推定され、商工業も発達していたとみられる九日市(ここのかいち)(九日市庭)地域に連なっていた。西の郭外には正法寺(しようぼうじ)池があり(のち埋立てられて正法寺村が成立)、山王権現(現日吉神社)・興国(こうこく)寺が置かれた。なお豊岡町は一部は地子免除であったが、江戸時代を通じて高付されており、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高四六八石余、天保郷帳では高七一四石余。豊岡町は水陸交通の要地であり、湯島(ゆしま)(現城崎町の城崎温泉所在地)への旅客でも賑わった。「但馬湯嶋道之記」は享保一三年(一七二八)頃の様子を「豊岡 湯嶋より三里、(中略)是より馬駕籠あり、町長し、町屋の裏へ船着く也、町中に出石へ行くの道あり、川も出石へ舟にて行くの委(みなまた)あり、此所に京大坂などへ湯嶋より帰る通し駕籠の者の宿あり、此宿にてか(借)る也」と記す。また享和二年(一八〇二)の菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)は「豊岡(中略)川舟の湊なり、出町といふ所に橋あり、此所茶屋多し、町は通筋二十丁余りあり、海舟も北海より乗入て、出町まで来りつく、泊り宿、船宿数多ありて、湯島へ川舟を出す」と描く。〔秀吉治政下〕天正一〇年(一五八二)九月、羽柴秀吉の麾下、城崎(きのさき)城主宮部善祥房継潤が発した地子免状(「宮部継潤地子免状写」豊岡細見抄)に初めて「豊岡町」「豊岡中」がみえる。免除高は八三石。南は亀(かめ)ヶ崎(さき)、北は北由羅(きたゆら)限の地に下(しも)町(文政二年から滋茂町)・中町・宵田(よいだ)町・寺(てら)町(裏町とも)・小尾崎(こおざき)町の五町が成立した。文禄五年(一五九六)九月二六日の鎌田久々井分名寄帳(足立家文書)には出作人の肩書として「とよおか」「とよおか中丁」がみえる。城崎城主は宮部継潤についで木下助兵衛尉・尾藤久右衛門知定・明石左近則実・福原右馬助直高と続いたが、木下氏以後はいずれも代官とみられる。 豊岡町とよおかちよう 北海道:上川支庁旭川市豊岡町[現在地名]旭川市豊岡四条(とよおかよじよう)一―四丁目・豊岡五条(とよおかごじよう)一―四丁目・豊岡六条(とよおかろくじよう)一―四丁目・豊岡七条(とよおかななじよう)一―四丁目・豊岡八条(とよおかはちじよう)一―四丁目・豊岡九条(とよおかくじよう)一―四丁目・豊岡十条(とよおかじゆうじよう)一―四丁目・豊岡十一条(とよおかじゆういちじよう)一―四丁目・豊岡十二条(とよおかじゆうにじよう)一―四丁目・豊岡十三条(とよおかじゆうさんじよう)一―四丁目・豊岡十四条(とよおかじゆうよじよう)三―四丁目・豊岡十五条(とよおかじゆうごじよう)四丁目昭和二六年(一九五一)に新設された町。明治期、当地は旭岡(あさひおか)とよばれ、明治三一年(一八九八)九月永山(ながやま)村から分離した東旭川村字ウシシュベツに相当する。昭和一二年一月の字名・地番変更により愛宕(あたご)・朝日(あさひ)とされた。これらは同一七年九月旭川市に編入。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by