豊川村
とよかわむら
熊原川の左岸に位置し、両岸に支村がある。東は三戸村と梅内村、西は斗内村、北は川守田村と袴田村に接する。戦国時代より三戸南部氏の配下に入り、天正(一五七三―九二)の頃豊川館に豊川氏が居館したとされる。伝承によれば豊川氏は南部光行が相内(現南部町)に一夜堀館を築いた時に馳せ参じた郷士のなかの一人という(聞老遺事)。
天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえ、高一一二・三七八石とある。七ヵ年平均の免は一ツ四分五厘四毛。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には蔵分〇・九石余、給分三〇五石余とある。家数は九七、うち本村四七で、馬九九疋を飼養。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数六九、うち支村久保七、玉ノ木一三、楢館六、北向八、菅田三、袖山二。
豊川村
とよかわむら
[現在地名]稲垣村豊川
岩木川西岸の旧堤防に沿い、北は楽田村、西は田圃を隔てて沼崎村、南は蘆部岡村(現木造町)。
享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)に、野田村を豊川村に改称したとある。翌年には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二七町五反五畝三歩、村高は一九三・九六一石であった。
豊川村
とよかわむら
[現在地名]豊川市豊川町
古宿村の北に接する。「和名抄」所載の宝飯郡豊川郷の故地。「吾妻鏡」暦仁元年(一二三八)二月八日条に「豊河宿」、同一〇月一九日条に「豊河駅」とあり、豊河の地名がみえるが、これは古宿地籍にあたるとみられている。「源平盛衰記」の寿永三年(一一八四)正月二〇日の件に源範頼が勢多より、義経が宇治よりそれぞれ京都に向かい木曾義仲と戦ったとき、「豊川三明寺住僧忠源等、信濃源氏と組んで討死す」とある。三明寺蔵天文二三年(一五五四)銘の棟札に「三州宝飯郡中条郷竜雲山三明寺」とあるように、この地を「中条郷」と称したようである。
慶長七年(一六〇二)水野八十郎領、元禄二年(一六八九)土井周防守領、享保三年(一七一八)松平孫四郎領、同一一年松平丹波守領に入り、同年中また幕府領に替わった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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