京都の聖護(しようご)院によって統轄された天台系の修験教団。修験道の開祖を役行者(えんのぎようじや),派祖を円珍(智証大師)とし,宗派の基礎は平安末期に固められた。当時の園城(おんじよう)寺には修験を行ずる僧が続出し,熊野三山や大峰山,金峰山(きんぷせん),葛城山などに抖擻(とそう),参籠修行したが,その先駆者であった増誉(ぞうよ)が1090年(寛治4)白河上皇初回の熊野詣先達を務め,その功績によって初代熊野三山検校に補せられた。増誉は洛東に聖護院を建て,熊野権現を勧請して修験道の鎮守としたが,その後を継いだ行尊,覚宗,覚讃なども上皇,女院,公卿の熊野詣の先達を務め,同様熊野三山検校に補せられ,さらに覚讃以後は洛東新熊野社(いまくまのしや)の検校をも兼ねることになり,園城寺修験は修験道界に確固たる地位を築いた。入峰儀式をしだいに整え,熊野,大峰を修行する諸国修験をその傘下に取り入れ,天台系本山派修験教団を形成していった。
鎌倉時代になると,聖護院は後白河天皇第10皇子静恵(じようえ)法親王が入寺してから宮門跡となり格式を高めたが,14世紀の初頭,覚助法親王が園城寺長吏,熊野三山検校,新熊野検校を兼ねたので,聖護院が本山派の棟梁となった。京都東山熊野若王子(にやくおうじ)権現の別当乗々院を熊野三山奉行に任じ,本山一派の補任の職務に当たらせた。地方の有力な修験,熊野先達を〈年行事〉に任じ,1郡2郡あるいは1郷2郷という特定地域の〈霞(かすみ)〉における修験の支配,檀那に対する宗教活動の権利を与えた。
慶長期(1596-1615)に入ると本山方と当山方(当山派)が袈裟筋や七五三祓(しめばらい)役儀のことで争いを起こした。1613年(慶長18)徳川家康は山伏法度の判物を聖護院と三宝院に遣わし,役銭の徴収と袈裟筋の混乱を停止させた。これを守ることで聖護院には本山派修験,三宝院には当山派修験の支配を認めた。近世には,本山派内の組織も整備され,幾多の年行事をかかえた,より大きな霞を支配する〈先達〉の階級を生んだ。その先達の中には,聖護院の膝下にあった院家(いんげ)先達と諸国散在の先達があった。院家先達には三山奉行の若王子乗々院,洛中新熊野別当勝仙院(後代住心院という),洛東積善院,洛北華台院,播州志染庄伽耶院など数ヵ寺があり,諸国先達は40余ヵ院を数えた。
1868年(明治1),明治政府の神仏分離策で修験の霊山は壊滅的な打撃をうけ,72年には太政官布達で修験宗は停止させられた。本山派修験は天台宗に属し,園城寺派管長の支配となった。
→修験道
執筆者:鈴木 昭英
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
熊野三山を拠点に京都の聖護院を本寺とする天台系修験宗派。真言系当山派と修験道界を二分した。1090年(寛治4)に白河上皇熊野御幸の先達を勤めた園城寺の増誉(ぞうよ)が聖護院を下賜され,同院は熊野三山検校(けんぎょう)を兼務した。15世紀後半,門跡道興(どうこう)のとき聖護院門跡が全国の熊野先達を統轄する教団が成立した。明治初期に天台宗寺門派に帰し,現在は本山修験宗を称する。なお本山派の山伏を本山衆という。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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… 鎌倉時代初期には,中央では熊野を拠点とした熊野山伏,金峰山で修行した大和の諸大寺に依拠した回国修験者の二つの修験集団が形成された。このうち前者の熊野山伏は三井寺の増誉が熊野三山検校になったのを契機として,鎌倉時代末には,聖護院を総本山とする本山派とよばれる修験教団になっていった。一方後者の回国修験者も興福寺の後だてのもとに当山派と呼ばれる教団を作りあげた。…
※「本山派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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