豊福村(読み)とよふくむら

日本歴史地名大系 「豊福村」の解説

豊福村
とよふくむら

[現在地名]佐用町豊福

仁方にがた村の北西、江川えかわ川上流域の標高二〇〇―三〇〇メートルの谷間に立地し、因幡道が通る。豊福・茶屋ちやや木里きざと小猪伏こいぶし日裏ひうら濁淵にごりふちの六集落がある。最高点は明神みようじん岳の三八八メートルである。建長二年(一二五〇)一一月の九条道家初度惣処分状(九条家文書)最勝金剛さいしようこんごう(現京都市東山区)領として「豊福庄」、忠家(道家嫡孫)の新御領として佐用さよ庄内「豊福村」とみえる。豊福庄は九条家領佐用庄内豊福村の一部の権益が別個に設定され伝領されていたものと考えられる。同庄はもと京都聖護しようご院領であったが、最勝金剛院領の伊賀国音羽おとわ(現三重県阿山町)と交換されたものであった。


豊福村
とよふくむら

[現在地名]松橋町豊福

北および東の境である浦河内うらかわち内田うちだの両村から西方へ延びる山岳丘陵が、舌状に突出した豊福台地とその周辺低地とを領域とする村。西には薩摩街道が南北に走り、中間なかま村との境目をなす。南部はあさ川の分水が西流し、さらにその下方竹崎たけざき村と接する。「とよぶく」とも発音する。現在、豊福台地の南西部には海岸干拓平野が広がるが、もともとは不知火しらぬひ海に臨んでいた。「日本書紀」景行一八年五月一日条に天皇が上陸したと伝える「八代県やつしろのあがた豊村とよのむら」とは、豊福の地ではとする考説すらある。「和名抄」に八代郡豊福郷がみえるが、広域的行政区画である。「日本霊異記」に宝亀二年(七七一)一一月一五日「肥後の国八代の郡豊服の郷とよぶくのさとの人、豊服広公とよぶくのひろぎみ」なるものの妻が懐妊し、「一つの肉団ししむら」を産んだという逸話を載せる。


豊福村
とよぶくむら

[現在地名]八女市豊福

宅間田たくまだ村の東にあり、八女丘陵の東部にあたる。久留米城下につながる山中さんちゆう街道が通り、一里塚が設けられていた(在方諸覚書)。中世は上妻こうづま庄のうちで、文治二年(一一八六)六月二七日の大宰府守護所下文案(上妻文書/鎌倉遺文一)によれば、同年五月六日「豊稲」(豊福か)・「久米」など一二ヵ所の地頭職が藤原(上妻)家宗に安堵されている。家宗は建久四年(一一九三)にも「豊福」など上妻庄内の七ヵ所の地頭職が与えられている(同年六月一九日「将軍家政所下文案」同文書/鎌倉遺文二)。建武三年(一三三六)八月三〇日や(同年九月一〇日「詫磨親元軍忠状」詫摩文書/南北朝遺文(九州編)一など)、同四年五月八日には豊福原や六段河原(現広川町六田)で南朝方の菊池勢と北朝方の佐竹重義勢が戦っている(同月一八日「小代経資軍忠状」小代文書/南北朝遺文(九州編)一など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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