日本歴史地名大系 「貝塚寺内」の解説
貝塚寺内
かいづかじない
大阪湾を西に望み、本願寺貝塚御坊(願泉寺)を中心に発達した寺内町。紀州街道が町を縦断。
寺内の草創について天正一五年(一五八七)の貝塚寺内基立書(薬師家文書)に「貝塚ハ往古五丁余ノ松原ナリ、白砂ニ庵寺一宇民家三十六軒アリ、此庵行基大士ノ遺跡也ト云、応仁年中蓮如上人御逗留アリ、年久住僧ナク此地ニ集ル人々相議シ、京都ノ落人右京坊殿ヲ根来寺ヨリ迎ヘ住持トス、其本姓ノ貴キト、才徳ノ高キトヲ尊ンテ長トス、右京坊ヲ卜半斎ト改ム、天文十九年艸庵ヲ再興シ弥陀ノ絵像ヲ安置シテ頻宗風ヲ興ス」とある。この草庵がのちの貝塚御坊で、天文二四年この庵を中心として
元亀元年(一五七〇)に始まる織田信長と石山本願寺との抗戦、いわゆる石山合戦では、本願寺の支城的役割を果していた貝塚寺内は、当然その影響をうけた。天正四年信長は本格的に石山本願寺攻めを開始するが、本願寺側に付いた周防の毛利氏は、同年七月一二日、貝塚に上陸して紀伊雑賀衆の同意を得、堺に向かっている(年欠七月一四日「村上元吉他十四名連署状」毛利家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報