貝塚寺内(読み)かいづかじない

日本歴史地名大系 「貝塚寺内」の解説

貝塚寺内
かいづかじない

大阪湾を西に望み、本願寺貝塚御坊(願泉寺)を中心に発達した寺内町。紀州街道が町を縦断中之なかの町・北之きたの町・南之みなみの町・西之にしの町・近木之こぎの町の五ヵ町に区画されている。南郡に属する。古くは海塚とも書き、天文一九年(一五五〇)卜半斎了珍を願主とした麻生郷の草庵に本願寺証如から阿弥陀如来画像(願泉寺蔵)が下付されたが、その裏書に「麻生郷堀海塚」とみえる。

寺内の草創について天正一五年(一五八七)の貝塚寺内基立書(薬師家文書)に「貝塚ハ往古五丁余ノ松原ナリ、白砂ニ庵寺一宇民家三十六軒アリ、此庵行基大士ノ遺跡也ト云、応仁年中蓮如上人御逗留アリ、年久住僧ナク此地ニ集ル人々相議シ、京都ノ落人右京坊殿ヲ根来寺ヨリ迎ヘ住持トス、其本姓ノ貴キト、才徳ノ高キトヲ尊ンテ長トス、右京坊ヲ卜半斎ト改ム、天文十九年艸庵ヲ再興シ弥陀ノ絵像ヲ安置シテ頻宗風ヲ興ス」とある。この草庵がのちの貝塚御坊で、天文二四年この庵を中心として石山いしやま本願寺(跡地は現東区)下の寺内に取立てられた。当時、貝塚をはじめ泉南諸村は紀州根来ねごろ寺の支配下にあったが一向宗徒が多数を占めていた。また岸和田城(現岸和田市)には十河一存が三好長慶の部将として在城し、根来寺勢力と敵対していた。根来寺が三好勢と対抗する拠点として貝塚は格好の地であり、本願寺教団にとっても泉南地方の拠点になるという、双方の利益が一致する背景があって免租の寺内にされたのである。ここに環濠城塞都市の建設が行われた。

元亀元年(一五七〇)に始まる織田信長石山本願寺との抗戦、いわゆる石山合戦では、本願寺の支城的役割を果していた貝塚寺内は、当然その影響をうけた。天正四年信長は本格的に石山本願寺攻めを開始するが、本願寺側に付いた周防の毛利氏は、同年七月一二日、貝塚に上陸して紀伊雑賀衆の同意を得、堺に向かっている(年欠七月一四日「村上元吉他十四名連署状」毛利家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の貝塚寺内の言及

【貝塚[市]】より

…農業では,市域の南東部丘陵地や山地斜面を利用したミカン栽培や稲作の裏作としてのタマネギ栽培のほか,大阪市の近郊に位置する地の利を生かしたハウスでの蔬菜栽培も行われている。【秋山 道雄】
[貝塚寺内]
 和泉国の寺内町。北の大津川と南の近木(こぎ)川にはさまれ海岸に沿って南北に長く立地する。…

※「貝塚寺内」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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