賀陽宮(読み)カヤノミヤ

精選版 日本国語大辞典 「賀陽宮」の意味・読み・例文・類語

かや‐の‐みや【賀陽宮】

  1. 皇族の一家。伏見宮貞敬親王の御子朝彦親王より出た。親王は初め南都一乗院に入り尊応法親王といい、のち粟田青蓮院に移って尊融と称した。文久三年(一八六三)中川宮と称し、翌年賀陽宮と改め、さらに明治八年(一八七五久邇宮(くにのみや)と改めた。そののち、朝彦親王の第二王子邦憲王は、明治二五年(一八九二)賀陽宮を称し、同三三年独立した。戦後皇籍離脱により賀陽氏を名乗る。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の賀陽宮の言及

【朝彦親王】より

…法名は尊融(初め尊応)。安政の大獄に座して永蟄居の処分を受けたが,1862年(文久2)国事御用掛となって朝政に参画,翌年特旨により還俗して中川宮(のち賀陽宮(かやのみや))と称した。時に長州藩を中心とした尊攘派の勢力が強盛で,大和行幸に名をかりて討幕を企てるに至るや,親王は同年8月内勅を奉じ,会津・鹿児島2藩と協力してこれを阻止し,その勢力を京都から一掃した(文久3年8月18日の政変)。…

【宮家】より

…皇族諸家をいう。令制の皇親制度も中世に至ってまったく衰微し,皇子以下の一家を立て,これを維持することもまれとなった。この間にあって宮家として存立し,皇親の身分を相承したのは,いわゆる世襲親王家である。その初例は鎌倉中期,亀山天皇の皇子恒明親王を始祖とする常磐井(ときわい)宮で,室町中期まで6代にわたって存続した。これに次ぐのは後二条天皇の皇子邦良親王に始まる木寺宮で,室町中期まで6代にわたって存続した。…

※「賀陽宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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