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朝彦親王 あさひこしんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朝彦親王
あさひこしんのう

[生]文政7(1824).1.28. 京都
[没]1891.10.29. 伊勢
伏見宮邦家親王第4王子。幼名富宮。親王宣下,名は成憲。一乗院入室,法諱は尊応。嘉永5 (1852) 年,青蓮院 (しょうれんいん) に移り尊融と改名,天台座主となり粟田宮といわれた。宮廷内議に参与。安政の大獄により永蟄居文久2 (62) 年青蓮院に還住,翌年還俗して中川宮朝彦親王と称した。長州藩を中心とする尊攘運動の紛糾抑制のため,文久三年八月十八日の政変に指導的役割を果した。元治1 (64) 年賀陽宮 (かやのみや) と改称大政奉還の翌日辞職。明治新政府にうとまれ広島に遷された。のち久邇宮 (くにのみや) と改称。神宮祭主となり,17年間奉仕,伊勢神宮の古儀復興に努めた。陵墓は京都市東山区泉涌寺 (せんにゅうじ) 山内町にある。

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朝日日本歴史人物事典の解説

朝彦親王

没年:明治24.10.29(1891)
生年:文政7.1.28(1824.2.27)
幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の第4子に生まれる。天保7(1836)年仁孝天皇の養子となり奈良一条院門跡,同8年親王宣下,同9年得度を受け尊応入道親王と称す。嘉永5(1852)年京都粟田口の青蓮院門跡となり尊融と改称,同年12月より天台座主。広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。安政5(1858)年2月条約調印の承認を求めて老中堀田正睦が上洛して以来,諸藩の京都手入れが活発化。水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,条約調印反対の姿勢を示し,将軍継嗣を徳川慶喜に期待して活動。翌6年2月謹慎,12月には隠居・永蟄居に処せられた。文久2(1862)年4月処分を解除され,青蓮院門跡に復した。時に39歳。同年12月国事用掛。翌3年1月還俗の内勅を受け中川宮と称す。 公武合体論を唱えて尊王攘夷運動に対抗。孝明天皇の意を受け8月18日の政変を指導,長州藩・尊攘派勢力を京から追放。その直後に元服し,名を朝彦とした。尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ,皇位簒奪の異図を含み呪詛の密法を行っているとの讒誣を受け,以来この種の風評に悩まされる。当初は薩摩藩と協調していたが,元治1(1864)年より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。慶応2(1866)年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。翌3年12月9日の王政復古の政変に際して参朝停止の処分を受ける。翌明治1(1868)年8月徳川再興の陰謀を企てたとの嫌疑により親王の位を剥奪され,広島に幽閉された。同3年京都帰住を許される。同8年5月親王の位を回復し,一家を立てて久邇宮と称す。7月神宮祭主に任命される。神宮の旧典考証に没念,22年遷宮の儀式に従事した。著書に『朝彦親王日記』がある。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

あさひこしんのう【朝彦親王】

1824‐91(文政7‐明治24)
伏見宮邦家親王の王子。仁孝天皇の養子として親王宣下を受ける。幼少のとき出家,初め一乗院,ついで青蓮院の門跡となる。法名は尊融(初め尊応)。安政の大獄に座して永蟄居の処分を受けたが,1862年(文久2)国事御用掛となって朝政に参画,翌年特旨により還俗して中川宮(のち賀陽宮(かやのみや))と称した。時に長州藩を中心とした尊攘派の勢力が強盛で,大和行幸に名をかりて討幕を企てるに至るや,親王は同年8月内勅を奉じ,会津・鹿児島2藩と協力してこれを阻止し,その勢力を京都から一掃した(文久3年8月18日の政変)。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

あさひこしんのう【朝彦親王】

1824~1891) 久邇宮くにのみや第一代。伏見宮邦家親王の第四王子。青蓮院宮・中川宮・賀陽宮かやのみやなどとも称した。法号は尊融法親王。安政の大獄で蟄居ちつきよ、のち公武合体派として活躍。維新後、伊勢神宮祭主となって神儀の復興につとめた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朝彦親王
あさひこしんのう
(1824―1891)

幕末期、公武合体派の中心人物の一人。伏見宮(ふしみのみや)邦家(くにいえ)親王第4王子で、1836年(天保7)仁孝(にんこう)天皇の養子。名は成憲(なりのり)、のち朝彦。粟田口(あわたぐち)の青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)となり、尊融(そんゆう)と称し、天台座主(ざす)に補せられた。青蓮院宮、粟田宮、中川宮、尹(いん)宮、賀陽(かや)宮などともいい、1875年(明治8)久邇(くに)宮と称した。安政(あんせい)の大獄では一橋(ひとつばし)派を支持して処罰され、文久(ぶんきゅう)期(1861~1864)には国事御用掛となり、公武合体派の重鎮として「文久三年八月十八日の政変」を推進、孝明(こうめい)天皇の信任が厚かった。しかし、天皇の急死、「王政復古」で政治生命は断たれた。1868年(明治1)には嫌疑を受けて広島へ謫居(たっきょ)、1870年京都帰住、1875年から神宮祭主となり、以後伊勢(いせ)神宮の古儀、旧典の調査、考証に努めた。『日本史籍協会叢書(そうしょ) 朝彦親王日記』2巻(復刻・1969・東京大学出版会)は、幕末活躍期の日記である。[田中 彰]

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