フランスの彫刻家。生気に満ちた写実主義、モニュメンタルな表現性、象徴主義的なテーマ、彫刻を量塊(マッス)としてとらえ、その動きと表現的な肌によって周辺空間と関連させる手法などにより、19世紀の彫刻に活気を与え、現代彫刻への道を開いた近代彫刻最大の芸術家として知られる。
1840年11月12日、警視庁の職員を父としてパリに生まれる。14歳のときから3年、古典主義の彫刻家のもとで修業、国立美術学校を志すが三度にわたり失敗し、建築装飾のための石工をしながら、アントアーヌ・ルイ・バリー、カリエ・ベルーズたちに師事し、1871年には、カリエ・ベルーズのブリュッセル商品取引所の装飾彫刻の制作の助手をつとめる。それ以前の1864年には『鼻のつぶれた男』をサロンに出品するが落選。しかし、この作品の激しい肉づけによって、ロダンは醜のなかに美をみいだすという美学と、量塊としての表現性という後の彼の作品の核となるものを示している。1875年イタリアに遊学、とくにミケランジェロに感動し、「アカデミズムからの解放」を得る。1876年、その写実性の巧みさによって人体から直接型取りしたとのスキャンダルを生んだ『青銅時代』を発表、その清新なレアリスムとムーブマンの追求は、その後『歩く人』『洗礼者ヨハネ』などの作品へと展開する。とくに、頭部を欠く『歩く人』によって量塊としての存在感、表現性、動きなどの探求が深められる。1879~1882年にはセーブル製陶所のための模型の制作、パリ市庁舎のための『ダランベールの肖像』などがある。
1880年、パリ装飾美術館の門扉のための『地獄の門』の発注を受ける。しかしこの作品は、その後の40年近くの生涯の努力を傾けてなお未完成に終わった。残された石膏(せっこう)原型からの鋳造は、ロダンと親交のあった日本のコレクター松方幸次郎によって初めてなされた。ダンテの『神曲』に想を得たこの作品は、フィレンツェ洗礼堂のギベルティによる『天国の門』、システィナ礼拝堂の大壁画『最後の審判』、ブレイクやギュスターブ・ドレの版画『神曲』などのさまざまな刺激と、ロダンが愛した女弟子兼助手カミーユ・クローデルCamille Claudel(1856―1943。詩人ポール・クローデルの姉。大理石の女性頭部像『物思い』のモデルとされる)との悩み多い愛などを背景とし、総計186点の単独像を含んで構想されている。実際に、『考える人』、『接吻(せっぷん)』『永遠の青春』など、ロダンの大理石やブロンズによる名作の単独像が数多く、この構想の過程に実現されていった。この『地獄の門』およびその周辺に派生した単独像、群像は、ちょうど19世紀末から20世紀初頭にかけての象徴主義的芸術の全盛期に対応している。たとえば、『接吻』は、その大胆さにおいて、象徴派の画家たちが開発した愛と性のテーマに影響を与えたし、また、これが単に『神曲』中のパオロとフランチェスカの恋の物語ではなく、いわゆる「呪(のろ)われた女」との愛の表現だという解釈すらも提出されている。一方、彼を彫刻における印象派とする考えもあるが、これは、ロダンが印象派と同世代であり、モネたちと親交し、1889年にはモネと二人展を開催したこと、また、彫刻の肌のモデリングで光の効果を重視したことなどに由来している。
1884年、ロダンはカレー市と、百年戦争の際の英雄的な市民の記念碑の制作を契約、作品『カレーの市民』は1886年に制作されるが、さまざまな批判があったため、実際にカレー市で除幕されたのは1895年である。ロダンは、この作品以前にも、プロイセン・フランス戦争の際のパリ防衛記念の像に応募(コンクールでは当選せず、のちにベルダン防衛記念碑『国の護(まも)り』として没後の1922年除幕)し、1880年代以降もさまざまな記念碑の注文を受けているが、未完に終わった作品が多く、完成はしても、実現は彼の死後となったものが多い。『バルザック記念像』がその一例で、1891年に文芸家協会から注文を受け、大胆な部屋着姿と裸体像で物議を醸して1898年に引き取りは拒否され、部屋着姿の像がパリの町に建立されたのは1939年、ラスパイユ通りとモンパルナス通りの合流を記念してであった。ロダンはこうした記念碑のために、また友人知己のために、数多くの肖像彫刻を制作し、ここでも従来の伝統的な肖像彫刻を離れて個性的な陰影表現をみせている。晩年は、踊り子の姿態とムーブマンを追求した連作を発表したが、日本の踊り子『ハナコの頭部』(1908)なども制作された。1917年11月17日、パリ郊外ムードンで死去。
晩年ロダンが購入して住居とアトリエにしたパリの由緒ある邸館オテル・ビロンは、1916年に全作品とともにフランス国家に寄贈され、国立ロダン美術館として一般に公開されており、ムードンのアトリエも同じく美術館として公開されている。日本では、松方コレクションの大量のロダンの作品が、東京の国立西洋美術館で展示公開されている。
[中山公男]
『佐々英也解説『世界彫刻美術全集12ロダン』(1976・小学館)』▽『富永惣一解説『現代世界美術全集5 ロダン/ブールデル』(1971・集英社)』▽『E・A・ブルデル著、清水多嘉示他訳『ロダン』(1968・筑摩書房)』▽『菊池一雄著『ロダン』(1968・中央公論美術出版)』▽『B・シャンピニュエル著、幸田礼雅訳『ロダンの生涯』(1982・美術公論社)』▽『リルケ著、高安国世訳『ロダン』(1952・人文書院)』
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フランスの彫刻家。モニュメンタルで生命力にあふれた表現,さらに彫刻を量塊としてとらえ,周辺空間との関連で彫刻の肌をつくる態度によって,近代彫刻に新生面をひらき,ブールデル,マイヨールなど,以後の彫刻家に多大の影響を与えた。パリに生まれ,装飾美術学校でカルポーに学んだのち,1864-70年カリエ・ベルーズCarrier-Belleuseの工房で働く。64年,伝統的な美の観念を無視する《鼻かけの男》をサロン(官展)に出品するが落選。普仏戦争で戦傷,戦後カリエ・ベルーズの仕事の助手としてブリュッセルに赴く。75年イタリアに遊学し,とりわけミケランジェロに傾倒する。帰国後,77年《青銅時代》をサロンに出品し,人体から直接石膏どりしたのではないかと疑われる。この作品に示された的確な写実力とムーブマンの感覚は,《歩く人》《バプテスマのヨハネ習作》でいっそう深められる。頭部を欠く人体の運動感と量感のみによって成り立つ習作こそ,ロダンの新しい彫刻観を示したものといえる。80年,政府の注文によるパリ装飾美術館の扉《地獄の門》の制作を開始。最終的に186点の像をふくむ扉の構想と実現に,その後の生涯を捧げた(実際の鋳造は,死後,松方幸次郎によってなされる)。その構想と習作のなかから,《考える人》《接吻》などの多くの単独像が生まれる。他方,80年代には《カレーの市民》,90年代には《バルザック》などの大作も制作。1900年の個展以降,その名声が確立する。死後,作品(デッサン,水彩を含む)とアトリエが国家に遺贈され,ロダン美術館となる。日本では国立西洋美術館(東京)のコレクションが知られる。
執筆者:中山 公男
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1840~1917
フランスの彫刻家。長く世に認められず職人生活のかたわら制作を続けた。作品は数多く,変化に富む。写実性と力強さ,心理的表現と造形美の追求を特徴とする。代表作「青銅時代」「バルザック」「考える人」,未完の作品に「地獄の門」。
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…サンフランシスコ講和条約(1951)後,フランスから日本政府に寄贈される形で返還されることになった松方コレクションを保管公開する目的で,1959年6月に開設された。同コレクションは実業家松方幸次郎(1865‐1950)が滞欧中に収集した膨大な美術品で,第2次大戦時フランスに残留した部分は,ロダンの彫刻,印象派の絵画を中心とした19世紀後半から1920年代に至るフランス美術の集成であった。収蔵作品数は約850点(1983年末)で,ティントレット,ルーベンス,ロイスダール,ドラクロア,コロー,モネ,ルノアール,ドガ,セザンヌらの絵画があり,ロダンの彫刻は質量ともにパリ,フィラデルフィアのそれに次ぐ。…
…しかし少なくともマニエリスム以降,建築の浮彫装飾などにトルソのモティーフがあらわれ,また絵画作品のなかでトルソは彫刻の寓意として描かれる。19世紀に,こうしたトルソ・ボツェット的なものに独自の自律的な形態を見いだしたのがロダンであり,そのモニュメンタルな作品が彼の《歩く人》である。ロダンのこの試みの背後には,〈完全,完成〉に関する古典的な美学に対する〈未完成の美学〉というロマン主義的な観念の出現と,他方ではフォルムの自律性についての近代的造形の思想があったと考えられる。…
…起源はミケランジェロにあり,彼の1520年代以降の作品(サン・ロレンツォのメディチ家廟の〈昼〉,ユリウス2世廟のための〈囚人たち〉など)において,完璧な仕上げにまで至ることなく,粗彫りのままに置かれる作品のもつ精神的効果に対して,同時代人がミケランジェロの〈ノン・フィニート〉と呼んだ。ロダンはミケランジェロ以後もっともよくこの技法を用いた芸術家である。【若桑 みどり】。…
…トリノに生まれ,ミラノのブレラ美術学校に学ぶが伝統的な教育法にあきたらず,中退してパリに出る。1889年のパリ万国博覧会への出品で当時の前衛芸術家の賞賛を受け,ロダンと知り合う。やがて2人は不和となるが,その原因は印象主義を彫刻にもちこんだのはどちらが先かということであり,またロダンの《バルザック》を自分のアイデアを盗んだとロッソが怒ったためである。…
※「ロダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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