質侶庄(読み)しとろのしよう

日本歴史地名大系 「質侶庄」の解説

質侶庄
しとろのしよう

現在の金谷町と島田市南部および吉田よしだ町北部を庄域とした庄園で、古代の蓁原はいばら質侶郷(「和名抄」高山寺本では賀沼、東急本では質治)の郷名を継承するとみられる。大治三年(一一二八)八月左衛門尉藤原永範が私領であった質侶牧を待賢門院御願の円勝えんしよう(現京都市左京区)寄進して、翌四年三月二八日に立庄された。この時の寄進の条件は円勝寺に年貢米三〇〇石を上納し、永範およびその子孫が預所職を保持するというものであった(大治三年八月日「藤原永範寄進状案」東大寺図書館蔵弥勒如来感応指示抄一紙背文書)。この永範寄進状案および立券文の案文の一つと推定される年月日未詳の質侶牧四至注進状案(陽明文庫蔵宗性筆最勝講聴衆記紙背文書)などによれば、四至は東が「中河」、南は「坂口中山」および「真野崎」、西は「粟粟峯・梅津領宇那河」等、北は「大井河流」および「鷹駒」となっている。庄内は質侶・湯日ゆい大楊おおやなぎ三郷からなり、質侶郷内には杉沢・大畠大白おおじろ・宗塩(宇塩)横岡よこおか黒沢深谷ふかや・裳草・八沢など一一ヵ村(二村は未詳)、湯日郷内には田片世・岡田おかだ・堀立・郡戸(郡部)深宇木ふこうぎ・神所・湯日の七ヵ村、大楊郷内には小山こやまなど五ヵ村(四村は未詳)があった。大治四年三月二八日の質侶庄立券文案(東大寺図書館蔵宗性筆唯識論第五巻問答抄紙背文書)によれば、牧の総面積は一千七四四町三反五杖半で、うち田二〇九町九反三杖・畠一二六町四反二杖半・原二一〇町・山五四七町・野二九一町・河原三六〇町、在家数は二一八宇。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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