金谷町(読み)かなやちよう

日本歴史地名大系 「金谷町」の解説

金谷町
かなやちよう

面積:六四・三六平方キロ

榛原郡のほぼ中央部に位置し、大井川の右岸に立地する。東は同川を挟んで島田市、南は牧之原まきのはら台地上で榛原町・小笠おがさ菊川きくがわ町、西は掛川市、北は川根かわね町と接する。町域の中央部を大代おおじろ川が南東流し、南東端で大井川に合流する。平野は大井川と大代川に挟まれた南東部のみで、南は台地、北は経塚きようづか(六六九・九メートル)八高はつこう(八三二・一メートル)などの山地となっている。平野部のほとんどが「天正の瀬替え」以前は大井川の河原であった。したがってそれ以前の遺跡は丘陵部にのみ残され、遺跡数は約二三ヵ所確認されている。縄文時代の遺跡は標高一九〇メートル以上の牧之原台地基部にあたる台地面の遺跡長者原ちようじやばら安田原あんだばら加藤原かとうばら杉ノ沢すぎのさわ西原にしはら唐沢からさわと、標高一一一―一六四メートルの大井川に沿った河岸段丘上の遺跡神尾かもお釜谷かまや・宮ノ段・駿河山)とに分けられる。駿河山するがやま遺跡では最近の発掘調査で縄文中期の竪穴住居跡(石囲炉や埋甕をもつものあり)や貯蔵穴、墳墓と思われる土坑が確認されている。弥生時代の遺跡は河岸段丘面の駿河山・宮ノ段みやのだん、ほぼ同じ標高の牧之原台地北向き斜面に立地する天王町てんのうちよう下坂しもさかにある。

金谷町
かなやちよう

[現在地名]三島大社町たいしやちよう出町でちよう

三嶋明神(三嶋大社)の東側の町。金屋町とも。地名は天正九年(一五八一)と推定される九月一七日の北条家朱印状写(真継文書)に「金谷」とみえ、当地や河原谷かわはらがや・三島の鋳物師は北条家から鉄の製造のため長久保ながくぼ(現長泉町)に赴き、斎藤氏の命令に従うよう命じられている。「金谷」は現韮山にらやま町金谷とも考えられるが、斎藤氏が享禄三年(一五三〇)六月五日に北条家より、走湯山(伊豆山神社)梵鐘を鋳造するための大工職に補任された三島鋳物師斎藤九郎右衛門の一族とすれば、当地の可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報