小山城跡(読み)おやまじようあと

日本歴史地名大系 「小山城跡」の解説

小山城跡
おやまじようあと

[現在地名]小山市城山町一丁目

おもい川左岸にあり、遺構は東側の国道四号との間に確認され、東西約七九〇メートル・南北約一〇三三六メートル、数郭に分れていたが現在主要部分は城山公園となっている。祇園ぎおん城とも称された。築城時期は不明であるが、この一帯は平安末期以来の小山氏の本拠地。康暦二年(一三八〇)からの小山義政の乱の頃には、南のわし城に義政が拠っていることなどから同城が本城であったとされる。のち結城泰朝によって興された小山氏が居城し、徐々に拡張され天正五年(一五七七)の北条氏照が入城する前後に大改造が加えられた。

小山義政の乱以前の南北朝期の史料に、小山館・小山城が散見する。鷲城が史料上で確認されず、また貞治二年(一三六三)八月の宇都宮氏攻撃のため出陣した関東公方足利基氏が陣した地を、「太平記」巻三九や「喜連川判鑑」では「小山ガ館」と記すが、「神明鏡」には「小山祇園城ヘ入御」とあり、右の小山城・小山館は当城のことで小山氏の本城であった。建武三年(一三三六)八月二四日、茂木知貞は「小山乃館」に馳せ参じ、以後、同館の警固に当たっている(同年一月日「茂木知貞代祐恵軍忠目安状」茂木文書)


小山城跡
こやまじようあと

[現在地名]吉田町片岡 東原

牧之原まきのはら台地の支尾根が東側の平野部に突き出して形成した舌状台地の先端部に所在する。北面は湯日ゆい川が流れて急崖を形成し、東と南面は湿地帯であった。西側のみが峰続きで、地勢が高く、虎口を構えたことから防御の重点が置かれた。元亀二年(一五七一)遠江に出陣した武田信玄が築いた。「甲陽軍鑑」によると、同年二月一六日信玄は甲府を出立し、同月二四日に遠州小山へ向かい、能満のうまん寺の普請を命じて大熊備前を指置いたという。城将大熊備前守長秀については同書に「大熊三十騎、遠州小山の定番」とみえる。天正三年(一五七五)九月徳川家康に攻められたが城の守りは堅く、武田勝頼が後詰めとして出陣してきたため徳川勢は退散、城に入った勝頼は城将岡部丹波守元信(長教)らに感状を与えてその戦功を讃えている(同月二一日「武田勝頼感状写」岡部文書など)


小山城跡
おやまじようあと

[現在地名]岩井市小山

東を浅間あさま沼のヤトの字東田ひがしだ、南を字前田まえだ、西を字西田にしだなどに囲まれた台地にある平山城で、風見主税の本拠地。城跡東に「堀の内ほりのうち」、南に「城の口しろのくち」、西田の船着場に「いり」の地名があり、また近くには当時の重臣とみられる倉持・吉葉・逆井・小磯など各氏の屋敷がある。小山城は古河公方足利成氏時代に水軍を主体に築かれたらしい。風見主税は永禄六年(一五六三)豊田とよだ(現結城郡石下町)城主豊田氏と下妻城主多賀谷氏の戦いに豊田方として激戦、天正二年(一五七四)利根川辺での戦いでは北条方に降った。


小山城跡
こやまじようあと

[現在地名]藤井寺市津堂など

津堂城山つどうしろやま古墳の墳丘と周濠を城郭に転用した城。土塁など城としての遺構は明らかでないが、小字図によれば、墳丘部分が本丸・二ノ丸として利用され、周濠は城の堀としてそのまま利用されていることがわかる。周濠外南側にも二ノ丸、西側には三ノ丸・四ノ丸の小字が残る。南北朝初期、南朝方の志貴某が拠ったと伝えるが、同時期の軍忠状などには当城の記録は現れない。下って室町時代、河内守護畠山義就の重臣安見備中守清時が当城主となり、以後、安見氏が数代居城したが、永禄九年(一五六六)三好康重に攻められて落城したとの伝承があるが(「安見家系譜」三宅家文書)、疑わしい。


小山城跡
こやまじようあと

[現在地名]古座町西向

西向にしむかいの通称しろ山とよばれる丘上にある小山氏の拠城。東西一〇メートル、南北一五メートルの平地があるのみで、現在、稲荷神社が鎮座する。また城跡西方、紀勢本線古座駅の南の線路脇に小山氏屋敷跡があり、当時の古井戸(小山屋敷井戸)が残る。

小山三郎実隆は南北朝時代の熊野の土豪で、「続風土記」に「実隆は安宅荘久木村小山助之進の祖石見守経幸の弟なり、文保二年左兵衛尉に任す(中略)元弘元年鎌倉の命を奉して、兄経幸とゝもに一族十三人従兵三百騎を率ひて南方海辺を守護せん為に、此地に住すといふ」とあり、北朝方であった。


小山城跡
おやまじようあと

[現在地名]大野市北御門

北御門きたみかどの南、二頂をもつ約三〇メートルの孤丘しろ山の上にあり、越前国守護を務めた斯波義廉の居城と伝える。北から平坦地いちひらから六ノ平まであったが、一―二ノ平は削られて消滅した。城山の周囲には小堀こぼり堀立ほりたての字名も残り、堀跡や清水もある。


小山城跡
こやまじようあと

[現在地名]八代町高家

あさ川扇状地北端付近の、川に面した河岸段丘上に立地する中世の城跡。西および北方方面には甲府盆地が広く眺望でき、北側に鎌倉街道、西方には若彦わかひこ路など古くからの道も走り、政治・経済・軍事的要衝の地である。周囲に土塁と堀をめぐらした単郭方形の居館状の構造をもつ。土塁の高さ三―五メートル、北西と南東角は幅広く、櫓台の存在も想定される。虎口は東辺にある。


小山城跡
おやまじようあと

[現在地名]熊本市小山町

小山山(一八九・六メートル)山頂が城跡と伝えられるが、城主は不明。山頂には城床じようとことよばれる小さな平地や南北に走る堀切が残る。南側麓の集落には居屋敷いやしき馬場前ばばまえの地名があり、陣内じんない蓮堀はすぼりの小名を残す所もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

世界の電気自動車市場

米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...

世界の電気自動車市場の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android