朝日日本歴史人物事典 「赤木忠春」の解説
赤木忠春
生年:文化13.10.13(1816.12.1)
開教直後の黒住教の高弟,布教者。美作国久米南条郡八出村(岡山県津山市)の庄屋陶太郎左衛門の子として生まれ,のちに同郡の大庄屋赤木常五郎の養子となった。天保8(1837)年に両眼を失明したことを契機として,弘化2(1845)年に黒住宗忠と会い黒住教に入門。「黒住教六高弟」のひとりと称せられる。ただし,正式の入門は宗忠没後の嘉永4(1851)年とする説もある。宗忠没後の嘉永4年,京都へ出て布教。黒住教の合法化のために,神祇伯職世襲の吉田家に接近し,宗忠大明神号獲得のための請願運動に奔走,安政3(1856)年3月遂に実現にこぎつけた。この間,京都周辺での布教も熱心に行い,禁厭や祈祷による治病活動で教勢を拡大した。関白九条尚忠が娘の病気治癒を契機として入門したのちは公卿へも影響を広げ,三条実美も一時門人であった。文久2(1862)年,京都神楽岡に宗忠神社の建立の許可を得ることに成功したが,このころから大元(岡山市の本部)から別派独立の嫌疑を受け,元治1(1864)年に破門された。身の潔白を証明するために郷里で修行中に死亡。教祖,宗忠には希薄であった「皇国」「皇祖神天照大神」を前面に打ち出し,尊王攘夷派の志士とも交流,次第に政治的性格を強めた。そのことが大元との宗教的懸隔を生んでいったと思われる。しかし,黒住教が明治以降いち早く別派独立の許可を得たのは,忠春の築いた人脈によるところが多い。<著作>『赤木大人歌文集』『七箇条諭弁』<参考文献>高野隆文『赤木忠春大人伝』,小寺基之子「黒住教の歴史的性格」(『岡山史学』24号)
(桂島宣弘)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報