朝日日本歴史人物事典 「赤沢朝経」の解説
赤沢朝経
生年:生年不詳
室町時代の武将,室町幕府管領細川政元の内衆。沢蔵軒宗益。加三。信濃国小笠原氏の一族であったが,延徳3(1491)年将軍足利義材(義稙)の近江出陣に従軍した際,政元に鷹狩の技能を認められてその被官となった(尊経閣本『不問物語』)。延徳4年2月9日付の『蔭凉軒日録』で朝経の鷹狩が話題となっているところをみると,上洛したのはそれ以前であろう。その後,山城国上3郡(久世,綴喜,相楽)守護代となり,明応5(1496)年遊佐弥六左衛門を山城国に攻撃し,8年2月河内国17カ所代官に補任され,同年7月比叡山を攻撃,同年9月山城国に畠山尚順勢を攻撃するなど政元の部将として活躍した。同年12月から文亀1(1501)年6月まで大和国に進軍,興福寺は神木を動座して朝廷に朝経退陣を要求した。同2年4月被官籾井,依利の両名に楊本荘を攻撃させたが,これに敗れると5月再び大和国に進軍,西大寺を炎上させるなどした。永正1(1504)年3月政元に反逆するが,薬師寺元一の執り成しによって6月赦免されて上洛。次いで同年9月元一の反乱が起こると,朝経もそれに与同した。2年6月再び赦免されて上洛し,政元より元のごとく山城上3郡の守護代に再任された。3年8月,畠山方国人筒井・越智氏らの征討のため大和国に進撃,法華寺や菩提山正暦寺,多武峰などで大合戦が展開された。同4年6月政元暗殺の際,丹後国一色義有方の一揆に包囲されて自殺。鷹狩の書『宗益相伝書』が残る。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報