走水村(読み)はしりみずむら

日本歴史地名大系 「走水村」の解説

走水村
はしりみずむら

[現在地名]横須賀市走水一―二丁目

三浦半島東端に位置し、浦賀うらが水道を扼する交通・軍事上の要地。西は大津おおつ村、南東端の観音かんのん崎は南接する鴨居かもい村に属する。「古事記」には倭建命の東征に際し弟橘比売命が「走水の海」に入水したと伝え、「日本書紀」は「其海、曰馳水也」とする。古東海道の房総半島への渡海地点であった。小字名として旗山はたやま皇島すべらぎじま・むぐりのはなが残る。天平七年(七三五)閏一一月一〇日の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)

<資料は省略されています>

とあり、田数一一八町四反余が山形女王の封戸であった。「北条五代記」には「三浦走水崎と上総富津の州崎の間わつか一里有、塩の満干はやき事矢を射るかことし、去程にのほり下りの舟共此所に来て塩さかひを待て舟をのる」と記す。小田原衆所領役帳に吉岡与次郎「四拾貫百廿六文 三浦走水」とある。

走水村
はしうどむら

[現在地名]中央区元町通もとまちどおり五丁目・栄町通さかえまちどおり五丁目

二茶屋ふたつぢやや村に囲まれ、中央を山陽道が通る。江戸時代の領主変遷は神戸村に同じ。慶長国絵図に走水村とみえ、高六七石。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では高三三石余。正保郷帳でも同高。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)によれば家数一九・人数一〇一。元禄一四年(一七〇一)の家数三四・人数一九三(「須磨組村々家数人数惣寄目録」秋宗家文書)。天明八年(一七八八)の巡見使通行用留帳(岡本家文書)隣村の船への出稼により人家が多いと張紙がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報