足利義維 (あしかがよしつな)
生没年:1511-73(永正8-天正1)
室町後期の武将。14代将軍義栄(よしひで)の父。号無覚寺。11代将軍義澄の長男として近江岡山城に出生。播磨赤松氏に庇護されたのち,阿波に亡命した義稙(よしたね)の養子となる。1527年(大永7)2月,山城桂川の戦で細川高国が三好政長に敗れて近江に逃亡したため,三好元長,細川晴元らに擁せられて堺に上陸,朝廷より従五位下,左馬頭に叙任された。晴元が畿内の実権を握ったため義維の居住した堺金蓮寺は事実上の幕府となり,彼は“堺大樹”“堺公方”と呼ばれて将軍に準ずる待遇を受けた。近年,義維の奉行人が発給した奉書50余通が確認され,彼の実質的な畿内支配が裏付けられている。しかし元長と晴元の確執に端を発して32年(天文1)7月,晴元と一向一揆連合軍は堺を攻撃して元長は敗死,義維も阿波へ逃亡して堺公方府は5年余の命脈を閉じた。のち息義栄は三好三人衆に擁立されて将軍となった。
執筆者:今谷 明
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足利義維
没年:天正1.10.8(1573.11.2)
生年:永正6(1509)
戦国時代の武将。父は将軍足利義澄で,義晴の同母兄との説がある。義澄が足利義稙に追われて近江岡山の九里氏館に滞在中,出生。大永1(1521)年阿波に出奔した義稙の猶子となり,阿波平島に成人する。同7年の桂川合戦で足利義晴,細川高国が敗れ,細川晴元政権が成立すると堺に上陸,同7月従五位下左馬頭に叙任され,「堺大樹」「堺公方」と呼ばれ畿内政権の頂点に立った。堺公方府は5年間畿内を支配。天文1(1532)年6月,細川晴元との対立が因で家宰三好元長が敗死し,義維は阿波に戻った。以後も将軍就任をうかがったが果たさず,永禄11(1568)年2月,子の義栄が将軍となるも,織田信長の入京で政権は潰えた。<参考文献>長江正一『三好長慶』
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足利義維 あしかが-よしつな
1509-1573 戦国-織豊時代の武将。
永正(えいしょう)6年生まれ。足利義澄の子。阿波(あわ)(徳島県)にのがれた10代将軍足利義稙(よしたね)の養子となる。大永(たいえい)7年三好(みよし)元長に擁立されて和泉(いずみ)(大阪府)堺(さかい)にうつり,畿内の実権をにぎるが,享禄(きょうろく)5年元長が敗死したため阿波平島(ひらじま)にかえる。平島御所,平島公方(くぼう),阿波公方とよばれた。天正(てんしょう)元年10月8日死去。65歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。後名は義冬。
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世界大百科事典(旧版)内の足利義維の言及
【和泉国】より
…旧国名。泉州。現在の大阪府南西部にあたる。
【古代】
五畿内に属する下国(《延喜式》)。河内国に属したが,716年(霊亀2)に[珍努(ちぬ)宮]の造営や管理にあてるため大鳥郡,和泉郡,日根郡の3郡を特別行政区画の和泉監(げん)として分離,740年(天平12)河内国に再び合併,757年(天平宝字1)和泉国として独立した。国府は和泉郡,現在の和泉市府中町付近にあった。《和名抄》によると大鳥郡10郷,和泉郡10郷,日根郡4郷からなる。…
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