跡部村(読み)あとべむら

日本歴史地名大系 「跡部村」の解説

跡部村
あとべむら

[現在地名]佐久市大字跡部

東は千曲川を隔てて下中込しもなかごみ村、南ははら村・野沢のざわ村、西は三塚みちづか村・上桜井かみざくらい村、北と東へ緩やかな傾斜をもつ平坦な地。富岡とみおか(現国道二五四号)は村の南東方から西北に抜ける。上跡部・中跡部・下跡部の集落はおおむね道の東に広がる。

嘉暦四年(一三二九)の諏訪社上社の大宮御造栄之目録には「外垣二間 跡部」とある。元和八年(一六二二)から徳川忠長領、寛永元年(一六二四)禰津ねつ領、慶安四年(一六五一)から幕府領、承応二年(一六五三)甲府領・幕府領、元禄一六年(一七〇三)一時岩村田いわむらだ領、翌宝永元年(一七〇四)から田野口たのくち領となって明治に至る。


跡部村
あとべむら

[現在地名]津市安東あんとう町 跡部

中跡部なかとべ村の西、安濃あのう川中流左岸堤防の下に集落がある。「和名抄跡部郷の名を伝える村。跡部の名は、物部氏の一流阿刀部あとべ氏あるいは阿刀氏に基づくものとされる。村内の水田には、ほぼ全域に条里地割が残っており、安濃郡条里の八条五里辺りに相当するものと推定されている。元徳元年(一三二九)の安東郡専当沙汰文に神田耕作者「丁部跡部宮内允」の名がみえる。


跡部村
あとべむら

[現在地名]武芸川町跡部

現武芸川町の南端、武儀川右岸に位置する。同川を挟んで東は高野たかの村と広見ひろみ(現関市)、西は北野きたの(現岐阜市)。「和名抄」にみえる武藝むげ郡九郷のうちの跡部郷の遺称地とされる。当地の臨済宗妙心寺派恵利えり(天平一七年に聖武天皇の勅願により行基が開創したと伝える)蔵の大般若波羅蜜多経四一〇巻の奥書に、寿永二年(一一八三)三月一二日に書写したとして、「執筆美濃国法輪寺住僧昇西 願主同国跡部郷住」とみえ、巻数未詳の奥書には年月日未詳ながら「濃州武義郡むき庄跡部郷 慧利寺御経也」とある。


跡部村
あとべむら

[現在地名]三木市跡部

加佐かさ村の東、美嚢みの川の中流右岸に位置し、北は加東かとう山田やまだ(現小野市)中世久留美くるみ庄に属した。嘉元元年(一三〇三)九月日の久留美庄跡部村地頭藤原秀綱請文(春日大社文書)によると、雑掌好国の非法を訴えた藤原秀綱は和解することとし、毎年一三貫文の請料を四月中に支払い、湯汲夫・春日詣夫については先例どおりの勤仕を約している。同三年一二月二九日の久留美庄領家方年貢米算用状(九条家文書)によると、温山温桶二〇口代として米一石が下されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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