日本歴史地名大系 「身延・身延町」の解説
身延・身延町
みのぶ・みのぶまち
現身延町の中央部西側、南流する富士川西岸、身延山の南東麓に位置し、北東は
〔中世〕
文永一一年二月、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰った日蓮は信者である波木井郷の地頭波木井(南部)六郎実長の招きに応じて、五月一二日に鎌倉を立ち、一七日に波木井に着いた(弘安五年一〇月七日「日蓮書状」日蓮聖人遺文など)。六月一七日には身延山の山中に庵が完成し、そこで隠棲生活が始まり(建治年間「日蓮書状」同遺文)、ここから多くの信者宛に書状を発している。そのなかで、日蓮は自分の在所を「身延嶺」「身延山」「身延沢」と表記するほか、「身延の嶽」「身延河」「身延の滝」などの表現を用いており、当時の身延は身延山を中心とし、「南は野山漫漫として百余里に及へり、北は身延山高く峙て白根か嶽につつき、西には七面と申山峨峨として白雪絶えす、人の住家一宇もなし」という状況であった(建治二年一二月九日「日蓮書状」同遺文)。身延山は波木井郷内に位置していたため、「はきゐの山の中」「波木井郷山中」とも記されている(年月日未詳「日蓮書状」同遺文など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報