身延山南東麓に位置する日蓮宗総本山。身延山と号し、本尊は大曼荼羅。かつては
開山の日蓮は立正安国の旗を掲げ、建長五年(一二五三)の開宗以来二〇年間の布教を行って多数の弟子・信徒を得た反面、種々の迫害を受けた。文永一一年(一二七四)二月、佐渡流罪を許されて鎌倉へ帰った日蓮は自分の意見が幕府に受入れられなかったため、信者である
草庵での生活は「木の皮をはきて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし、春は蕨を折て身を養ひ、秋は果を拾て命を支へ候つる程に、去年十一月より雪降り積て、改年の正月今に絶る事なし、庵室は七尺、雪は一丈、四壁は冰を壁とし、軒のつらゝは道場荘厳の瓔珞の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来らぬ上、雪深して道塞かり、問人もなき」という有様であったが(弘安三年正月二七日「日蓮書状」日蓮聖人遺文)、周囲にはしだいに信者が集まり、弘安元年には「人はなき時は四十人、ある時は六十人」といわれ(一一月二九日「日蓮書状」同遺文)、翌年には一〇〇余人の人を山中で養ったという(同二年八月一七日「日蓮書状」同遺文)。また、建治四年(一二七八)頃に
寺伝では延暦年間(七八二―八〇六)最澄の開創とするが、西山御坊来由書(西本願寺蔵)・「山州名跡志」は本願寺三代覚如、「大谷本願寺通紀」は覚如の父覚恵の開創とする。覚恵について梵音を学んだ亀山上皇が教授の労として宸居の旧殿を下賜、覚如が父の遺志を継承して正和三年(一三一四)久遠寺を竣工させた(「別院縁由」大谷本願寺通紀)。寺号は亀山上皇から文永九年(一二七二)勅賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」の号による。元亨元年(一三二一)後醍醐天皇の勅により真宗の道場となる。
南北朝期には記録類に混乱がみられ、併せて寺伝も錯綜する。前掲由来書によれば、元弘元年(一三三一)六月一二日に左少将源隆貞の奉じた綸旨(後醍醐天皇か)により「浄土専念之道場」となる。正慶二年(一三三三)二月右中将藤原実継が奉じた光厳天皇綸皆により御願所となり、さらに元弘二年六月一六日には左少将隆貞が奉じた宮将軍令旨によって御祈祷所になるとともに、覚如は「本願寺并久遠寺」留守職の兼帯を命じられている。
日蓮宗寺院。本尊は大曼荼羅。山号は富士山。富士門流(興門派)の富士五山の一。現在日蓮宗の由緒寺院の寺格を有する。「古文書記興門雑記」によれば、
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山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗総本山。身延山妙法華院と号する。日蓮が1274年(文永11)から82年(弘安5)にかけて在住した旧跡で,のちその廟所が寺院化して久遠寺となった。日蓮没(1282)後,その遺言により廟所が身延に置かれ,門弟の輪番による廟所への奉仕が制定された。しかし,やがて行われなくなり,日興(につこう)が主としてこれに当たり,日向(にこう)も身延に来て学頭を務めたが,身延の地を寄進した日蓮の檀越(だんおつ)波木井(はきい)実長と日興との間に不和が生じ,日興は88年(正応1)駿河に去ったので,日向が住持=貫首(かんず)となり,身延門流=日向門流の拠点とした。室町時代の貫首日朝は,堂宇を現在地に移し拡充したばかりでなく,その後嗣日意・日伝とともに,各地に身延門流の教線を伸ばし,それまでの波木井氏の氏寺的存在であった久遠寺を日蓮廟所を中心とする霊場寺院化していった。さらに,すでに日蓮在世のころにみられた身延への納骨もさかんとなり,人々の祖霊のいる霊山霊場としての身延信仰も加わっていった。こうして,日朝ら3人は身延中興の三師と呼ばれる。近世初頭には,関西の六条本国寺門流の日重が貫首に招かれたが,日重は弟子日乾(につけん)を推した。日乾に次いで同門の日遠(にちおん)も貫首に就任,関西門流の東国進出を果たした。いっぽう,このころ起こっていた日蓮教団における受不施(じゆふせ)・不受不施の確執のなかで,日乾・日遠・日暹(につせん)らは受不施を代表して,のちに不受派を地下潜行に追いこんだ。こうして,久遠寺は,それまでの門流単位の小中教団から全国的教団に展開した日蓮教団の頂点的存在となった。1633年(寛永10)久遠寺日暹の名において提出した〈法華宗諸寺目録〉はその証左である。近世初頭にはすでに日蓮の忌日(きにち)仏事である会式(えしき)(10月12,13日)に各地から参詣者が集まり,徳川氏による関米(交通税)免除の措置もとられるほどになった。祖師(日蓮)信仰のひろまりとともに,久遠寺の江戸・大坂への出開帳(でがいちよう)も行われ,身延講など講衆を中心としたにぎやかさや期間中の参観者の盛大さも人々の耳目をそばだたせた。日重・日乾・日遠の3人,近世中期久遠寺を興隆した日脱・日省(につせい)・日亨(につこう)の3人も,それぞれ身延中興の三師と呼ばれる。近代初頭,明治維新の変革とそれによる混乱を迎えるが,この間,新居日薩・吉川日鑑・三村日修らは,この危機をのりこえ,宗門中興の三師という。久遠寺の存在する身延山は,もと波木井氏の寄進したところであるが,明治維新によりほとんど御料地に召しあげられた。その後,山林払下げ運動がくり返され,1919年ようやくこれが実現,旧に復した。近代・現代において,久遠寺貫首は,ときに日蓮宗管長を兼ねることもあった。
久遠寺管理下に身延町の飛地的存在である七面山があり,身延山守護神七面大明神(七面天女)をまつる。もと周辺の水分(みくまり)信仰の対象であったと考えられるが,近世初頭にはすでに七面大明神宝殿が造営されている。また,徳川家康の側室養珠院お万がこの山に登詣,女人禁制を解いたといわれ,このころから男女の登詣がさかんになっていったらしい。現世利益を与えてくれる山の神=七面大明神への信仰は,身延の祖師信仰のひろまりとともに普及していった。七面山登詣者の増大ばかりでなく,各地の日蓮宗寺院に勧請されていき,鬼子母神(きしもじん)・三十番神と並んで,この大明神も日蓮宗の守護神として尊崇され,多くの信者を集めている。しかし,いっぽうに,1776年(安永5)ころ大明神を邪神として久遠寺歴代を除かれた日唱のような人もいた。
執筆者:高木 豊
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山梨県南巨摩(みなみこま)郡身延(みのぶ)町にある日蓮(にちれん)宗総本山。通称身延山。日蓮は佐渡流罪赦免後も蒙古(もうこ)襲来を予言し幕府を諫(いさ)めたが、三度目の諫暁(かんぎょう)ののち、1274年(文永11)甲州波木井(はきり)の地頭(じとう)波木井六郎実長(さねなが)の迎えを受けて、6月17日身延山西谷(御草庵(ごそうあん)跡の地)へ入ったのに始まる。身延は、釈迦(しゃか)が『法華経(ほけきょう)』を説いた霊鷲山(りょうじゅせん)に似、天台大師の修法の地天台山に異ならないと称し、53歳より9年間滞在した。その間、多くの弟子が訪れ、7年後に10間四面の本堂が建てられた。日蓮はここで『顕立正意鈔(けんりゅうしょういしょう)』『撰時鈔(せんじしょう)』『報恩鈔(ほうおんしょう)』『教行証(きょうぎょうしょう)御事』『諫暁八幡鈔』『三大秘法稟承事(ぼんじょうのこと)』など多くの著作をなした。61歳のとき身延を出、武蔵(むさし)国(東京都)池上宗仲(いけがみむねなか)の邸(やしき)で没したが、遺言により遺骨は身延へ埋葬され、六老僧が1か月ごとの輪番制で廟(びょう)を守った。のちに日向(にこう)が寺主となり、第二祖とされた。1474年(文明6)第十一祖日朝(にっちょう)が現在の地に大伽藍(がらん)を造営した。戦国時代は、武田氏の帰依(きえ)を得、江戸時代には豊臣(とよとみ)秀吉の姉日秀尼が堂宇を増修、徳川家康・秀忠(ひでただ)が判物を与えた。徳川家により10万石を寄進され、上人(しょうにん)号を勅許された。現在、本堂、祖師堂、御真骨(ごしんこつ)堂、三門、思親閣(ししんかく)(奥の院)、宝物館ほか多くの建物を有し、寺宝に徽宗(きそう)筆絹本着色「夏景山水図」(国宝)、鎌倉古写本『本朝文粋』『宋版礼記(らいき)正義』『釈迦八相(しゃかはっそう)図』(いずれも国重要文化財)などがある。なお、七面山(しちめんざん)は日朗(にちろう)の登山開闢(かいびゃく)の霊地。開闢会(え)(6月15~17日)、御会式(おえしき)(10月11~13日)などの行事を行う。
[田村晃祐]
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山梨県身延町にある日蓮宗総本山。身延山と号す。佐渡流罪から帰った日蓮が,1274年(文永11)檀越(だんおつ)の南部(波木井)実長の領地に隠棲のための草庵を構えたのが始まり。82年(弘安5)の日蓮没後はその廟所となり,高弟が順番で運営にあたったが,まもなくその体制がくずれ日興(にっこう)が常住する。実長との不和で日興が駿河国大石寺に去ると,日向(にこう)が継承した。11世日朝の時代に西谷から現在地に移転。以後,甲斐武田氏の庇護を得て発展した。近世初頭の不受不施をめぐる論争では受不施を唱え,江戸幕府の支持をうけて不受不施派を抑圧,日蓮教団の中心的存在となる。「報恩抄」はじめ日蓮の真蹟遺文多数を所蔵したが,1875年(明治8)火災で大半を失った。
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…臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。 戦国時代の甲斐は武田信虎・信玄(晴信)・勝頼3代による領国統一時代である。…
…西の身延山地と東の天守山地の両山麓を占め,中央部を富士川が南流する。中心の身延は日蓮宗総本山身延山久遠(くおん)寺の門前町として発展してきた。山林が約80%を占める山岳地帯で,杉,ヒノキの造林が進められ,近世下山地区には宮大工が多かった。…
…東側は1000m近い断層(身延衝上断層)崖で富士川の谷に臨み,西は糸魚川‐静岡構造線上の春木川の谷へ下るが,山頂は準平原のなごりをとどめ,平たんである。地質は,第三紀中新世中・後期の地層より成り,山腹の久遠(くおん)寺付近では泥岩,より高所では安山岩(火山角レキ岩および凝灰岩)である。身延山の名称は,一般には山名よりも日蓮宗総本山身延山久遠寺,または日蓮宗法城の域内(北は身延山,南は鷹取山,東は寺平の峰,西は春木川に限られる範囲)を指す。…
※「久遠寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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