デジタル大辞泉
「身延町」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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身延町
みのぶちよう
面積:一三一・一二平方キロ
南巨摩郡の中央部南寄りに位置し、町域は南流する富士川流域を中心に周辺の山岳地帯に及ぶ。北は早川を境に中富町、西は身延山地の稜線で早川町・静岡市、南から南東は南部町、北東は西八代郡下部町に接する。富士川東岸は御坂山地の支脈毛無山地が富士川に迫り平地に乏しい。西岸には七面山(一九八二・四メートル)中心の身延山地があり、相又川・大城川・身延川などが谷を刻み、波木井川となって富士川に合流する。七面山は早川町域にそびえるが、山頂から北東にかけては当町の飛地がある。身延山地の北側から大城川にかけて糸魚川―静岡構造線(フォッサマグナ)がほぼ南北に走り、基盤がもろく浸食も激しい。富士川に沿って東岸をJR身延線、西岸を国道五二号が南北に走り、当町北部の早川と富士川の合流点付近で国道三〇〇号が分岐し、本栖湖方面に向かう。もと蓑夫と記され、身延となったのは日蓮の入山後といわれるが(「甲斐国志」など)、確証はない。
古代律令制下の当町域は、富士川西岸が巨麻郡川合郷、東岸は八代郡川合郷に含まれていたといわれる。「玉葉」安元二年(一一七六)一〇月一一日条にみえる施薬院領飯野牧は大野付近にあったとされ、波木井郷は同牧の内であった。鎌倉期の波木井郷地頭波木井実長は甲斐源氏加賀美遠光の三男南部光行の子で、同郷に館を構え父光行の後継者として南部郷を含む一帯を支配し、下山郷に入部した下山光重は光行の兄秋山光朝の子で、帯金を領した帯金氏も遠光の分流といわれるなど、当町には加賀美一族の勢力が強く及んでいたと思われる。文永一一年(一二七四)実長の保護のもとに日蓮が身延沢に結んだ草庵は、やがて久遠寺となって日蓮宗の布教の拠点となり、実長をはじめとする波木井(南部)氏、下山郷地頭下山光基などの在地領主の一族が入信し、その外護を受けて発展した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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身延〔町〕
みのぶ
山梨県南西部,富士川の両岸に広がる町。 2004年9月,下部,中富,旧身延の3町が合併して発足。富士川と早川,常葉 (ときわ) 川などの支流の流域は平坦地で,町域の東に天守山地,西に巨摩山地の急峻な山岳地帯が連なる。主産業は林業,畑作および観光業。北西部の西島地区は,伝統的な和紙の生産地。身延地区の中心集落身延は,身延山にある日蓮宗総本山久遠寺の門前町として栄える。南西部の下部川の谷には下部温泉がある。久遠寺所蔵の夏景山水図 (絹本著色) は国宝,下部地区の甲斐金山遺跡 (中山金山) は史跡に指定されている。身延山のブッポウソウ繁殖地,上沢寺,本国寺,八木沢にあるオハツキイチョウは天然記念物。町域の一部は南アルプス巨摩県立自然公園に属する。国道 52号線 (富士川街道) が南北,300号線が東西に延び,富士川の東側を JR身延線が通る。面積 301.98km2。人口 1万663(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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