近岡村(読み)ちかおかむら

日本歴史地名大系 「近岡村」の解説

近岡村
ちかおかむら

[現在地名]足助町追分おいわけ

ともえ川右岸の段丘上、山麓の傾斜地に立地。東は寺沢てらさわ村、南は巴川を隔てて岩神やがみ村・籠林かごばやし村、西は田振たぶり村・くち村、北はしおさわ村に接する。足助村から西に通じる伊保いぼ街道・七里しちり街道が巴川の河岸近くを通り、西外れで巴川から離れて、支流の朝日あさひ川左岸に沿って井ノ口村に至る。現在、街道は国道一五三号となっているが、主要地方道岡崎―足助線が分れて巴川右岸沿いに岡崎に通じている。巴川が大きく湾曲する比較的広い段丘上に吉田よしだ遺跡があり、縄文時代後期・晩期、奈良時代から鎌倉時代に至る遺物を出土している。


近岡村
ちかおかむら

[現在地名]金沢市近岡町・みなと三丁目

大野おおの川左岸、直江なおえ村の西に位置する。中世には倉月くらつき庄のうち近岡郷(近岡村)として推移。暦応四年(一三四一)八月七日の摂津親秀譲状(美吉文書)穢土えど(現京都市西京区西芳寺)領として倉月庄内「近岡郷内月峯五町」がみえる。貞和二年(一三四六)の倉月庄と大野庄の境界相論で、東西の境「鳥越山」は当地の北にあった(同年閏九月一九日「足利直義下知状案」天龍寺文書)。文明九年(一四七七)一〇月一五日、幕府は延暦寺に押領された「近岡村」などを摂津之親に安堵している(「室町幕府奉行人奉書」美吉文書)。天文五年(一五三六)一〇月一二日、西芳さいほう寺は一向一揆によって退転した当村などの知行回復を本願寺に要請し、同月一四日本願寺証如はこれを申付けている(賀州本家領謂付日記)


近岡村
ちかおかむら

[現在地名]柏村稲盛いせ

北は稲盛村に接し、江戸時代に灌漑用として造った出精しゆつせい川が村内を北流する。

村名は金田きんた村の近くに存在した岡によるといわれ、開村は広須新田の開発が始まった寛文年間(一六六一―七三)という(柏村郷土史)。享保一二年(一七二七)には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて四二町一反一九歩、村高は二七四・八四二石であった。うち田方は三八町二反一畝二五歩で二六六・二六九石、上田から下々田まで設定され、下田が二一町一反九畝一三歩、一四八・三六石とあり、畑方は三町八反八畝二四歩で八・五七三石、下畑と下々畑のみで、下々畑が二町二反九畝四歩、二・二九石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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